※【1】の続きです。
中村 今、先生の普段の作家としてのお話がありました。先生ご自身の創作活動と授業とは、どちらかがどちらかに影響するといったことはあるのでしょうか。
O JUN 藝大のときもそうでしたけれども、東大でも学生たちのドローイングの中に、絶対どう逆立ちしても僕には描けないなというのはありますね。一人一人の見ていることや―それに手が付いていくかというのは置いておいても―見ているものについて描くことでもって何とかそれを表現しようという、その道筋を何とか自分でつけようという部分というのは、本当にそれぞれ100人いれば100通りあるわけで。絶対に自分はこの道筋は通らないなというものを描いたり表現してきたりする学生はいますね。それは見る度に、じゃあおまえはどうなのだというふうに突き付けられる感じがありますね。
中村 面白いですね。構図の切り取り方や感性みたいなことなのでしょうか。
O JUN そうです、そうです。他にも、色鉛筆一本の使い方とか、こういう筆圧や筆触で自分は描いたことがなかったとか。何十年も使っているにもかかわらずですね。
中村 それは、学生がまだ若くて経験が少ないからなのでしょうか。あるいは、個人差というか、感じ方が人それぞれで違うからということなのでしょうか。
O JUN どちらもあると思います。もう少しトレーニングを積んで、例えば再現性のトレーニングとか、もっと描写的なトレーニングとかを積んでいくと、逆に今のそういう部分は消えていくかもしれないですよね。だけども、かつてそのときに描き表した物っていうのは、物として残っているので、それをまたずっと自分が先にいったときに見返す機会があります。僕なんかもしょっちゅうあります。当時は、ただひたすらうまくなろうと思って描いていたわけですが、何か図らずも出ていた雰囲気とか表情みたいなものに気づきます。それからもう何年も何年も制作を続けていって、もうとっくにそういうものを忘れてしまって、見返すと、こんな見方をしていたのかということに気づくわけです。それをもう一度やろうというわけではなくて、それを見たことが刺激になって、別の道筋がちょっと見えてきたり。そういったことが起きている気がするのです。
中村 そういえば、昔自分が書いた小説を読み直して、そこに刺激を受けて新しい作品を生み出すという小説家のお話を聞いたことがあります。
O JUN それと同じようなことだと思います。時間が経って他人事のように見えるわけですね。とりあえずどういうようなかたちでもいいから、今これを描きとどめておくということが大事かなと思います。
中村 そういった意味では、今学生達がこのコロナ禍という特殊な状況下で描いていたものが残っていて、この後卒業してから見返したりする機会があるというのは大事なことのように思います。
O JUN そうですね、そういう機会があれば幸いじゃないかなと思います。
中村 最後の回に展覧会をやるということもありますし、そういった意味でも作品がきちんと残るわけですね。
O JUN 展覧会については、どういう形にしようかなと、今それを考えています。美術館とか博物館で企画展があるときに、その動線に沿っていろんな什器や壁を作ったり展覧会の器を作る知人がいます。いろいろな展覧会を手がけている人なのですけれども、その方に来ていただいて展覧会を作る話をしてもらおうかなと。
中村 僕は、展覧会を見に行ったときも、それがどのように作られているかといった舞台裏までは考えたことがなかったです。
O JUN そういった話をしてもらうと、今まであまり意識しなかったところにも目が向くかなと。限られた時間の中での授業ですけれども、なるべく毎回いろいろと楽しんでもらえたらなという思いもあります。
中村 そういった工夫に関していえば、先生の授業では円になる回があったりして、回毎にレイアウトを変えられていますけれども、その辺りの意図はどういったところにあるのでしょうか。今の毎回楽しんでもらいたいというのもあるとは思いますが。
O JUN KALSの、何ていうのですかね、非常に動かしやすい机。
中村 まがたまテーブルと呼んでおります。
O JUN とても組み替えやすいので、じゃあここで3人1組になったり2人1組になったりして、共通の課題をちょっとやってごらんとか交換してごらんとか、教員にとっても授業のヒントになっていることが多いのではないかなと思います。
KALSのまがたまテーブル
中村 水彩を使えるのがwaiting roomのみだからというのもありますけれども、教室空間についてもメインのstudio以外も含めて広く使っていただいていますね。
O JUN もし実技そのものをきちんとやろうとなったら、美大藝大のような施設は無理でも、1部屋でもアトリエみたいなものが東大にも必要になると思います。けれども、既にKALSがあって十分活用できていて、逆にそれによって今まで美大や藝大の中でできなかったような授業形態みたいなものが模索できているのもいいのかなと思っています。
KALSの空間配置図
中村 反対に、何かこれがKALSにあったらもっといいなといったものはありますか。
O JUN 例えば、机を全部なくして床だけで、ただ、だだっ広いだけの部屋という使い方もしてみたいなと思っています。床一面に大きなロール紙をだーっと広げたときには、かなり大きな画面になるので、協働的にドローイングをやっていくっていう、そういう何か遊びのようなことも可能なのかなと。
中村 藝大だと当然そういう部屋があるわけですものね。
O JUN 水場があって、それであともうがらんとしていて、椅子などは、いつもあるところから各自持ってくるっていう。基本的にただの箱なので。
中村 実は机と椅子をstorage roomに全て収納することもできるので、KALSでもそういった使い方をしていただくことも可能ですよね。
中澤 はい、可能です。それに関して、先生が先ほどKALSだからこそできる活動とかもあるということをおっしゃっていましたけれども、藝大・美大のアトリエにここの学習環境を近づけようとされているのか、それともここはこことして、アトリエ的なこともできたり、あるいは他のこともできたりといった意図があるのかというのをお聞きしたく思います。
O JUN ここの空間を授業の中でどうアトリエ化するかということが大事かなと。学生達にも言ったのですけれども、ここは、5時5分から6時35分までは、それぞれのアトリエだと。なので、各自でいろいろと使い方を工夫してくださいと。基本、絵を描くというのはどこでも描けるのですよね。僕も、もう大学を辞めて天井の高い研究室はないので、本当に自宅の中の4畳半か、そのぐらいのところで描けるものを描いたり、作れるものを作ったりしているのですけれども、それでも組み合わせて大きくすることもできますし。ここのところずっと展覧会が続いていて自転車操業的にやっているので、家の中が大変なことになっていますが、それでも使い方を工夫すればできるので、絵というのはそういうもの。物を作るというのはそういうこと。人の行為というのも、やはりそうなのだろうなと思います。
中澤 面白いですね。
O JUN だから、物理的な場所の大きい小さいということは必ずしも制限にならないのではないかなと。学生達がこの教室でどういう使い方の工夫をするか。もう少し自由に席を移動してくれてもいいのですけれども、そこら辺はまだちょっと遠慮しているのかもしれません。例えば、こっちの大きいほうの部屋 [studio]で大きいものを描いて、水彩を使うときにはこっち[waiting room]に来るとか。それができる部屋なので。
中澤 学生達に自分自身の学習環境を作ってほしいというのは、すごく面白いなと。先生側が学習環境をデザインして用意する授業が多いですよね。
中村 この授業ならではという感じがしますね。
中澤 実はKALSをつくる際にお手本の一つにした、はこだて未来大学の教室は、美大のアトリエをヒントに学習環境をデザインされています。アトリエのよさというのは、教育工学的には、例えば学生がキャンバスに向かっていて、そこを先生が歩きながら学生と対話をして、その様子が他の学生も分かるといったところにあると言われています。
O JUN 僕、絵描きなものですから、自分の制作メディウムは絵画ですけれども、もし映像をやっておられる方が講師として授業をされるならば、この大きな4面スクリーンを使って、いろいろな形での展示も可能だろうなと。一部屋全部を映像作品の空間にするとか、これからそういう作家を講師として迎えられるのもいいかなと思います。
(文責:中村長史)
Aセメスター木曜日5限の駒場アクティブラーニングスタジオ(KALS)。窓の外が暗くなっていくなか、20名ほどの学生達が一心不乱に絵を描いています。文理融合ゼミナール「絵の授業」の時間です。授業が進むにつれ、KALSが、さながらアトリエの様相を呈してきました――こうしたユニークな授業を担当されているO JUN先生に、お話を伺いました。
【インタビュウ概要】
日時:2021年12月9日
話し手:O JUN(文理融合ゼミナール「絵の授業」担当、東京藝術大学名誉教授、画家)
聞き手:中村長史、中澤明子(教養学部附属教養教育高度化機構)
【インタビュウ目次】
1.授業の目的・到達目標
2.評価の方法
3.東大教養学部という環境
4.プロの作家による実技指導
5.授業設計・実施における工夫
中村 東京大学の教養学部で実技指導の授業をご担当いただくのは初めてですが、これまで先生が教えてこられた藝大や美大と何か勝手が違うといった点はあるでしょうか。
O JUN 恐らく、受講している学生たちの動機は様々だろうと思います。中学校高校とずっと絵が好きで描いてきて、かなり技術的に高い学生も若干いますし、イラストが好きで描くことに興味を持っているので受講しているという学生もいますし、そういうものからずっとかけ離れたことをやっていたので、ちょっと受講してみるという学生もいます。美大を受験するとか、美術機関のようなところに作家として入っていくためのトレーニングとなると、別なカリキュラムが必要になってくると思いますけども、この授業では、自分の体と素材、画材とを接触させることの体験に重きを置いています。そういった身体的・感覚的な体験をするのにはドローイングが最適だろうということで、今やっています。
中村 今まさしく授業を通して学生に学んでほしいこと、授業の目的や到達目標をおっしゃっていただいたかと思います。学生の動機や知識、技量がばらばらな中で、共通して目指すのはそういった身体的・感覚的なことの体験で、細かい技術についてはまた別の機会にということでしょうか。
O JUN そうですね。あとは、一般的な美術の知識や絵の見方については授業の中で少しフォローできればなと。幸いこのKALSという教室には大きなスクリーンが四面にありますので、いろいろな画像や動画を資料として引用して、これから学生たちに紹介していこうかなと思っています。
中村 そういった知識の面と、体験の面とは、学生達の様子を見ながらバランスよく。
O JUN そうですね。それが理想です。
KALSのスクリーン
中村 そういった目的・到達目標を踏まえて学生のパフォーマンスをどう評価するかについても伺いたいと思います。素人考えだと、知識の方は問い方次第では評価しやすいのかもしれないですけれども、体験の方はなかなか評価するのが難しいのではないかなと。
O JUN 作品のテクニカルな面での出来不出来で成績を付けるとすれば非常に楽です。ただ、この授業で一番大切な部分というのは、もうちょっと下のほうに潜んでいるという感じがします。モティベーションの問題であるとか、身体性の問題とか。たかだか1枚の紙の上に、鉛筆なり何なり簡単な素材でそれが表れているかを見たいなと。1週間ごとの授業にまず出席してもらって、頭を切り替えてリラックスして線を描いたり点を打ってみたりという―非常に単純素朴な制作行為ですけれども―そうしたことを毎週やっていくなかで描くものの中に変化がもたらされているかどうか。1人ずつの制作の進捗状況を毎週眺めていって、最終的にドローイング展のようなことをできればと思っています。
中村 学生の作品の展示ということですね。
O JUN はい。最後の授業で「1日だけの展覧会」ということで行ってみたいと。基本的には、授業に出て一生懸命毎回毎回描いて―うまくいこうがいくまいが―いろんなものに興味を持ってやってくれていれば僕は高評価します。美術というものはそういうものかなと思います。不可というのは普通に出ていればありえません。また、見事に描けたとか、そっくりに描けたから優というものでもありませんし。一人一人の学生が、自分が描こうとしているものとか、描きたいという気持ちとどう向き合っているかという部分を評価してあげたいなと思います。
中村 共通のものさしで測るというよりは一人一人の制作姿勢を見てということですかね。
O JUN そう思います。ええ。
中澤 見るときのポイントは、どういったところにあるのでしょうか。
O JUN 今日1日やったらここまで進んだ、また次の週やればここまで進んだというふうに非常にリニアな矢印が描ける部分も制作の中にはあるのですけれども、むしろ先週はちょっと見つからなかったのだけれども今日こういうことが気になったとか、そういう部分が見られたらそれは非常に評価したいですね。必ずしもちゃんとれんがを積むようにはいかなかったのだけれども、今日見つかったことに対して一生懸命いろいろなところからアプローチしてみたという。
中澤 それは学生と対話する中で先生ご自身が把握されていくのか、あるいはもう作品だけを見ていたら分かるものなのでしょうか。
O JUN いや、やっぱり作品だけでは、描かれたものっていうものだけで全て分かるものではなくて。だからこれが例えばコンクールとか、そういったコンペのようなものでしたら作品しかないのですけども、目的がまずそれではないっていうことと、この授業というのは一応指導する私がいて学生がいてという、同じ時間を同じ場所で共有しているので、そのやりとりがやはり重要だろうと。
中村 20人いる学生の一人一人をきちんと、成果物だけではなくてプロセスも見るというのは大変ですね。
O JUN 美術というものはあってないような枠組みなので。絵を描いていれば美術ではあるけれども、日常の生活の中でも、ものを見るということ、それから触るということが常にあるわけです。それが絵を描いたりものを作ったりという創造的な行為に返ってくるものですから。
中村 授業の中だけでは完結しないということですかね。学生が教室の外でも、道を歩いているときでも、今までは気付かなかったこと、例えば葉っぱの色が少し変わったのではないかしらんと敏感になるとか。
O JUN おっしゃるとおりだと思います。だからこれによって、この授業によって作家になるとか美術のほうに進むとかってことではなくても、日常的なものの見方とか感じ方とか、そういったものに少し影響なり反映するようなことがあれば、小さいことのようで結構大きいのかなという気がします。今は気付きとか学びとか、ちょっと耳にたこができるぐらいよく聞く言葉ではありますけれども、どこで何を気付くのかは大事かなと思います。自分が今いる空間だとか、もうちょっと広がって社会であるとか、その中で見つけたもの、触れたものが、どう自分の考え方を刺激するか。人は移動するものですから、移動した先でまた違った体験をする。そういうことの何かトレーニングみたいな部分が大きいのではないのかなと。そういう当たり前のことをちょっと取り出して、それを授業の中で絵を描くという行為に変換させて、それをもう一度また家に帰って全然違うことをやったときに、どこかでぴんときたり、これは覚えがあるのだけれど何かしらみたいな感じで振り返ったり、そういう時間がちょっとでもあるとまた違うのかなと。
中村 冒頭でも様々なタイプの学生が授業を受けているというお話がありましたが、教養学部で授業を始められて何かお感じになることはありますか。
O JUN ガイダンス後に受講者数を制限しなくちゃいけないということで、こちらから受講希望理由等について質問を出してそれに対して答えをくださいと。それに対しての答えが、質問の意図を汲んだものになっていて、なかなかやっぱりしっかりしているなと。内省的なことだけではなくて、もうちょっと外在的なことも含めて、これこれこういう理由で受講してみたいと。そこら辺が総じてしっかりとした回答が届いたものですから、1人も落としたくないなと思いました。
中村 動機は人それぞれだったけれども、動機を明確に伝えてきてくれるという点では皆同じだったと。
O JUN そうです。そういうところはさすがだなと思いましたね。そういう学生達を見て、今度は慣れない絵を描くということを始めたときに、どういう変化や戸惑いが起こるのかな、少しは新鮮な体験になるのかなと期待しています。美術というものは、相手に伝えるということだけが使命じゃないので。伝わらなくても、何かが見えたり感じたりすることで面白い。そういった体験もしてもらいたいなと思います。
中村 僕は政治学者として社会科学系の論文を書くゼミを担当してまして、僕なぞの授業だと、一定の知識を有する読者であれば誰が読んでも一つの理解に達するような文章を書きましょうという指導をするわけですが、美術の場合、当然それに閉じないわけですね。
O JUN そうですね。
中村 そういった意味では文理融合ゼミナールで美術の授業があるのはいいことですね。
中澤 そうですね。私の授業でもディスカッションをしてもらうと、答えのない議論が難しいという反応があったので、それともちょっと通じるのかなと。アートにも答えがあるわけではなくて、自分の中との対話のようなものが必要になってくるので、東大生にはいい経験なのかなと思いました。
O JUN 絵を描くとかドローイングするということは、事前のトレーニングがない状態で始めた場合、習熟していないですから、描き間違えとか描き切れないとか技術的な点は、学生の中でストレスになる部分があるかと思います。それでも描いてしまったものというのは、1つの答えなのですよね。出来が悪いなと自分で思っていれば、そこから、じゃあ次どうするのかという。描法だとか、あるいはものの見方をもうちょっと変えてみるとか工夫が必要だなというところにいけば、また変化もしてくるだろうし。そういった間違いみたいなものというのはむしろ大歓迎といいますか、一つの結果なので、そこから次のことが始まる、見えてくるということを体験してもらいたいなと。僕らもそうなので。
【2】に続く