中央アジア散歩

各料理の地域間比較

カテゴリー: 食文化

先の記事で先日作ったラグマンについて深く掘り下げた。ウズベキスタンの食文化の中には他にも興味深い料理や習慣がたくさんある。今回の記事では、一つの料理ではなく色々な料理などについて俯瞰的に説明していこうと思う。 ・ラグマン (↓新宿のウイグル料理店「タリム」のラグメン) 先日の記事でラグマンはトマトベースのスープであると述べた。ウズベキスタンでは、レシピで再現してみる限りスパイスのきいたカレーとイタリアンのトマトソースの中間のような味であった。しかし、先日ウイグル料理店「タリム」で食べたウイグルの「ラグメン」はスープはウズベキスタンのものと類似しているものの、酢の類のものがスープに加えられており、酸味があった。イメージとしては冷やし中華のつゆのような味である。こうした酸味をもつ料理は、酢豚など中華料理によく見られる。やはり、ウイグル自治区と中国が近くなるにつれ、中華料理の影響が出始めているものと思われる。また麺も、ウズベキスタンのものは讃岐うどんやきしめんのようにやや幅広のめんであったが、ウイグルのものはスパゲッティや山手らーめんの麺のような真円形の断面をもつ麺であった。またスープの量もウズベキスタンでは比較的多いのに対し、ウイグルでは平皿に乗る程度である。これも地域間の水の得やすさが影響しているのではないかと思われる。 ・プロフ (↓新宿のウイグル料理店「タリム」のポロ) プロフはクミンやコリアンダーなどのスパイスをきかせた炊き込みご飯である。ウズベキスタンでは広く日常的に食され、通りに大なべでプロフをつくる屋台が多く出ているほどである。プロフが食されているのはほぼラグマンと同じ地域であるがウイグル自治区ではやはり名前を変え、「ポロ」という名前になる。中央アジア地域ではニンジンや羊肉のブロック、レーズンなどの具が入るがウイグル自治区ではこれにヨーグルトのような乳発酵製品のソースをかけて食べる。ご飯に乳製品をかけて食べると言うのは日本からするととても奇異なものに思えるかもしれないが、比較的脂っこいプロフをさっぱりと食べることができる。なお、ウズベキスタンではトマトのサラダなどと一緒に食べられることが多い。またプロフは西に行くと「ピラフ」と名を変え我々のよく知っている料理となる。 ・ナン (↓ウズベキスタンのノン) ナンと言われると、日本人はインド料理屋で出される朴の葉のような形のパンが思い浮かべられると思う。ウズベキスタンのナンはノンとよばれ、インドのナンとは全く別のものである。形は真円形で外側がかなり厚くなっており真ん中は薄い。またインドのナンのようにもちもちとした触感はなく、むしろ密度の高い食パンのようである。 ・茶 茶の原産地は中国南部である。中国ではラプサンスーチョンという紅茶や緑茶、白茶、黒茶など種々の茶、インドではシッキムやダージリン、アッサムなど多くの紅茶が栽培され、またよく飲まれている。中国からシルクロードで繋がっている西域、中央アジア地域、そしてもちろん茶の生産の盛んな南アジア地域にも飲茶の習慣がある。 ウズベキスタンでは、茶はチャイまたはチョイと呼ばれる。チャイという名前には聞きおぼえがある人もいるだろう。またまたインド料理屋に行きチャイというものを頼むと、スパイスのきいた甘いミルクティーが出てくる。ウズベキスタンの茶は、チャイと名前は同じであるものの、インドのそれとはまったく違いふつうストレートで飲む。このチャイの淹れ方は日本と言うよりは中国茶に近い。ゴクチャイと呼ばれる緑茶(ただし、緑茶と言っても日本の緑茶とは全く違うものである)は茶碗にまずそそぎ、それをポットに3回ほど戻し、さらに数分間蒸らしてから飲まれる。 またキルギスやウズベキスタンではチャイハナと呼ばれる喫茶店が街にあり、木陰や店内などで喫茶を楽しむ市民の憩いの場となっている。 このように、ごく僅かの紹介となってしまったが、先に紹介したラグマン以外にもウズベキスタンでは食文化には他地域と比べて類似性、また独自性がある。ウズベキスタンの訪問では、この日本とは全く違う文化に触れ、またシルクロードの終点日本の文化の源流ともいうべき、ウズベキスタンの文化を肌で感じることによって自国のことを見つめ直すきっかけになれば、と思う。 ○参考文献など 世界の料理 サカイ優佳子・田平恵美 編 食料の世界地図 大賀圭治 監訳 中山里美・高田直也 訳 (文、写真:理科二類二年 間下)

ウズベキスタン大使館訪問記

カテゴリー: 全般

先日、目黒にある在日ウズベキスタン大使館を訪問した。きっかけは、他の大使館がインターン募集していることを知り、中央アジア散歩を履修するにあたってウズベキスタン大使館でインターンを経験してみたいと思ったことだ。ウズベキスタン大使館の公式サイトが見つからなかったためダメ元で履歴書と手紙を郵送してみたところ、岡田先生の元に電話がかかってきたとのこと。直接連絡がくるのをじっと待ち、辛抱が報われたのは数カ月後のことであった。こちらの都合のいい時にいつでも会ってくれる、と非常に親切だが若干曖昧な内容の返事である。これがウズベク流のおおらかさなのであろうか。とにかく突撃訪問してみることにした。 大使館の場所を調べてみると、徒歩圏内に駅がないためバスに乗ってアクセスする。渋谷から約25分の入谷橋で下車すると辺りは静かな住宅街である。しかし、30秒ほど歩いたところの角を曲がると、ウズベキスタンの国旗がはためく大き目な家がそこにはたっていた。旗を発見して思わずにやり。 近づいてみると門にはやはり「ウズベキスタン大使館」と表記されたプレートがあった。インターホンを押して名乗ると奥の扉から案内された。中はオフィスというより、外装通り高級住宅といった感じで、壁にはウズベキスタンの美しい建築や風景の絵画が飾ってある。 ミーティングルームらしき部屋に案内され、しばらくするとメールのやりとりをしていたコシモフさんがいらっしゃった。その後一時間程お話を伺ったが、ウズベキスタンと日本関係に関しする前向きさと熱心さが深く印象に残った。盛んになりつつある日本・ウズベク大学間の交流やビジネスでの協力体制、シルクロードを渡ってウズベキスタンへ伝わった奈良時代の日本の工芸品などを挙げて、両国の国際関係について語られた。我々の中央アジアゼミについても関心を持たれている様子であった。ウズベキスタンでの研修後、ウズベク文化を発信する機会があれば大使館の協力も得られそうだという心強いお言葉もいただいた。ゼミ研修への出発が迫ってきているが、実際にウズベキスタンを自分たちの目で見て、現地の学生と議論を重ねた上で今後我々がどのようなウズベキスタン文化を持ち帰り、発信していけるかを考えていけたらと思う。 追記 大使館で伺った話の中にあった日本とウズベキスタンの関係について少し触れておく。今年の2月にウズベキスタン大統領が来日した際、東京で菅前総理と会談し両国の政治・経済を含む複数の観点における関係の発展について合意に達した。日本とウズベキスタンは1992年に国交を結んだが関係を強化していく余地はまだまだあるように思われる。 ウズベキスタンはウランの埋蔵量が世界10位であり、他にも天然ガス、レアメタル、金などの資源が眠っている。資源に乏しい日本としてはウズベキスタンとの関係を強化することでこれらの確保が望まれる。資源開発を望む日本企業を支援し、貿易の手続きの改善など両国をつなぐビジネス環境を整える必要があるという共通の認識を両政府は持っているようだ。 ウズベキスタン側としては日本企業の技術移転や投資、情報コミュニケーション技術においての協力を望んでいる。また、環境への配慮と安定したエネルギー供給を両立できる代替エネルギー技術への移行もウズベキスタンの課題である。これも日本の技術協力が可能な点である。 資源が乏しいが高い技術力を持つ日本と、資源が豊富だが発展途上のウズベキスタンは経済・技術的に協力していくことで利害が一致するように思われる。経済や政治において国際関係がさらに向上することで両国の文化的交流も進んでいくことが望まれる。 文責:文科二類2年 末松

街紹介班FW報告

カテゴリー: 全般

前回の記事では、私達にとって異国であるウズベキスタンを考えるために、一つブックレビューを書いた。異国を理解する方法はいろいろあるだろうが、この本ならばある程度、ウズベキスタンに対してリアリティを感じられるだろう。疑似体験でもいいから、何らかのリアリティを感じることが異国理解につながるのでは、と思っている。 さて、我々がウズベキスタンに訪問した際には、日本のことを紹介する機会があるのだが、その際にもリアリティをもってもらうために、先日グループで東京中の写真を撮って歩いた。渋谷のスクランブル交差点、109、銀座、代官山・・・・。今回は街紹介班で行ったFWについて報告しようと思う。 東京の魅力が何であるかを考えると、比較的狭い地域に、様々な特色をもった地域が存在していることである。渋谷や高田馬場のような若者・学生の街から、青山・代官山のような落ち着いた雰囲気の街並み、丸の内・神田のようなビジネス街、浅草・金町のような下町。こうした東京の特色を伝えられるように、各地域に特徴的な風景をなるべく収めようとした。スクランブル交差点のような有名所だけではなく、官庁街の建物など、日本の中心である東京の建物・街の多様性を示せるような写真を撮るよう尽力した。 FWは、渋谷→代官山→永田町→霞ヶ関→銀座→神田→丸の内→東京と続き、夜が更けたので終了した。要素的に下町的な要素が欠けてしまったことは非常に残念であるが、ある程度の写真が撮れたのではないかと思っている。例えば以下の様な写真である。 ・総務省(霞ヶ関) (筆者撮影)   ・夜の東京駅前   (筆者撮影) こうした写真用いて、日本の紹介を上手く行えたらと思っている。 (文責:教養学部文科二類 西田夏海)  

ウズベキスタンのナショナリズム

カテゴリー: 全般

ウズベキスタンという多民族国家における「ナショナリズム」の特殊性は非常に興味深い。それは旧ソ連邦から独立した中央アジア諸国に共通する特性であり、帝政ロシア時代から始まるロシアの影響によるものである。以下に、文献から調べたことを簡単にまとめてみたいと思う。 *      帝政ロシアによる支配と中央アジアの諸民族 中央アジアの、現在まで続く民族構成ができたのは十六世紀頃である。中央アジアを支配した帝国はテュルク系王朝が多かったが、宮廷言語、文学言語としてペルシア語を採用していた。帝国は多民族国家で、人々の民族意識は弱かった。人はまず、自分の暮らす地域や部族に属していた。また、民族と言語や、民族と居住領域の対応関係はなかった。たとえば、「ウズベク人」とは、言語集団ではなく、シャイバーン朝を出現させた連合にさかのぼる諸部族出身の人々を表す。しかし、人々にとって肝心なのは「ウズベク人」か「タジク人」かではなく、「サマルカンドの人間」か「ブハラの人間」かということだった。 帰属意識の対象に「結束集団」を指摘する文献もある。結束集団とは、漠然と先祖が一緒だという人々で構成され、地域性を伴って強化される。その社会的基盤は、部族や氏族、同業組合、宗教と様々であるが、この集団と言語、出自の対応関係はない。とくに部族制のもとでは、部族内の氏族が結束集団を成し、多くは地域的基盤を持つ。ソ連体制下では、この集団がコルホーズの枠組みとして再編され、新たにコルホーズが社会的基盤となった。その結果、独立後もこの結束集団が政治的役割を果たすことになった。 帝政ロシアのよる支配は、草原地帯とトランスオクシアナで異なる手法が用いられた。カザフ草原地帯では、まず、現地の有力者を懐柔し、やがてロシア人農民が大量に移住し現地農民の耕地を奪った。このような社会構造の破壊が現地人のナショナリズムに影響したとされる。 一方、トランスオクシアナでは、伝統的な社会構造は温存され、ロシア人の移住も都市部だけに限られた。ロシアの大きな影響といえば、この地域が外界にひらかれ、近代化への準備がなされたことである。オスマン・トルコの知識人の影響を受けて改革派知識人(ジャディード)が登場するが、彼らの望みは民族の別によらない、中央アジアのムスリム国家を建設することだったように、いまだ民族意識としてのナショナリズムは希薄であった。 *      ソ連による民族政策 ところが、ソ連体制下では、極めて政治的・人為的に、民族意識としてのナショナリズムが形成された。中央アジアの民族の汎イスラム主義・汎トルコ主義的な越境的連帯を分断し、民族集団を対立状態におく分断統治を行い、共産党支配体制を整えるためであった。さらに、逆に越境的民族的連帯を標榜することで、ソ連の影響力を連邦外まで拡大するためであった。まず、民族を規定し、その第一基準として言語をあてがい、次に領土を付与する。さらに、国家機構、制度を整え、外面的な国民国家の体を整える。(実権はソ連が握った。) この際、民族の規定は戦略的に行われ、言語学的、人類学的根拠が後付に考えられた。言語(と文字)は対内的差別化と対外的差別化という二つの原理にしたがって、民族の関連性を分断するように、新しく考え出され、固定化された。(その結果、ペルシア語のような民族横断的な主要文化言語の地域を媒介する役割は弱まった。)「ウズベク語」も、人為的につくられた言語である。トルコ的な要素を排除するため、ペルシア的な方言を基本とされた。このため、現在では、トルコ系の言語に近いために公用語とかなり異なった方言も「ウズベク語」として話されることになった。 国境線に地理的な整合性はなく、凹凸や飛び地が多かった。また、民族的な整合性もなく、とくにウズベキスタンの周辺各国には多数のウズベク人マイノリティが存在する。こうした国境線の不条理には、中央アジアの新設共和国の独立の展望を描かせなくするという意図があったが、これらの諸国は民族も国境線もそのままに独立を果たした。そのため、こんにちまでソ連体制下で政治的につくられたナショナリズムが受け継がれることになった。 *      現代の中央アジア諸国による正統性の創生 逆説的にも、独立後の中央アジア諸国にはソ連支配のおかげで、近代国家としての要素がそろっていた。したがって、諸国は政治機構、行政機構だけでなく、ナショナリズムを形成する要素(民族、歴史、領土)をもスライドするかたちで受け継いだ。さらに、ソ連と同じ手法を用いることで新しい帰属意識を作り出そうとした。たとえば、ソ連的な要素を排除するための、文字の変更や歴史解釈の変更である。 中央アジア諸国のナショナリズムの特徴は、民族の正統性をもとめる理論にある。ソビエト民族学において、民族の源郷をたどる西洋の民族学に対抗し、ある土地に太古から住む集団同士が混ざり合って民族が形成される、という「民族起源学」が採用された。これはソ連の民族共和国の存在根拠を歴史的に証明するための理論であり、本来の各民族のナショナリズムとは無関係であった。しかし、この理論によれば民族の起源を際限なく遡ることができるため、独立国家として対外的、対内的正統性を必要とした現在の中央アジア諸国でも採用された。このため、たとえば、ウズベク人によって倒された帝国の創始、ティムールがウズベキスタンの国民的英雄とされているような、傍からは不思議に思われるような事態になっているのだ。 以上は、現在のウズベキスタンのナショナリズムを形成するまでのおおまかな流れである。(まとめるうえで、具体的な例や、ウズベキスタン以外の国家に関わる例はなるべく省略した。)私自身うまく理解しきれていない部分もあるので、稚拙なまとめになっていると思う。現地研修の前に、さらに調査を重ねて、理解を深めたい。 現代の世界情勢を考えれば、ナショナリズムはとてもデリケートな問題だと思う。このような知識が先入観にならないように気をつけたい。できるならば、現地にいって実際にその国家の中で暮らす人の思いをきいてみたいと思っている。 参考文献: 中央アジアを知るための60章(第二版) 宇山智彦編 明石書店 現代中央アジア オリヴィエ・ロワ著 白水社 ウズベキスタン―民族・歴史・国家 高橋 巌根著 創土社 文責:文科二類一年 藤沢

食文化に見るシルクロード・東西交流

カテゴリー: 食文化

ウズベキスタンはシルクロードの要衝に位置する。先日世界文化遺産に登録された岩手県平泉の中尊寺にはこの辺りの地で特産するラピスラズリが装飾につかわれていたり、奈良などの寺社にはギリシャなどの西洋から中央アジアを通って伝わった建築様式や仏像などが見られるなど、古くから東洋と西洋の文化が行き交い、また交流してきた場所である。 行き交っているのは、自社の建築様式や特産品だけではない。ウズベキスタンやアジア、ヨーロッパの食文化を比較すると、シルクロードを経て東西が交流している様子を見ることができる。 まずは、先日僕と福井で作った、ラグマンについてみて行きたいと思う。(ラグマンの料理レポートについてはこちらをご覧ください。) (↓ラグマン) ラグマンはウズベキスタンを代表する料理と言っても過言ではない。スパイスをきかせたトマトベースのスープで羊肉や野菜を煮て、その中に日本でいうところの讃岐うどんに似た麺を入れたものである。 この料理についても、西洋や東洋から受けた影響、またそれらに与えた影響がみられる。 まずは、麺。麺料理についてはイタリアのパスタからベトナムのフォー、日本のうどんなどシルクロードが通っていた地域やその周辺地域によくみられる。ラグマンの麺は、先程日本で言えば讃岐うどんに似ていると述べたが、作り方や見た目も似ている。(ただし、讃岐うどんは中力粉を使うが、ラグマンは強力粉を使う。)また製麺の方法も、伸ばして乾燥させる素麺や弦のようなものに押し当てて細くするイタリアのギターラ、ミンチ機のようなものから押し出してお湯の中に入れる韓国の冷麺など数々の方法が世界には見られるが、ラグマンもさぬきうどんも生地をのばして包丁で切っていく方法である。 次に、具。具に用いられるのは羊肉、にんにく、ピーマン、じゃがいも、ひよこ豆など、中央アジア地域でよく取れるものである。ここは各地から流入してきた文化が土地の気候風土に合わせて成長している面であると言える。ひよこ豆はイスラエルのフムスという料理など、西アジア地域でも食べられている。 スープには、トマトがベースに用いられていると述べた。トマトが日本で食用になったのは明治以降であるようにトマトは西洋方面からの流入である。実際、イタリアのパスタにはトマトソースがよく用いられ、ロシアの世界的にも有名な料理であるボルシチやビーフストロガノフにもトマトが用いられている。また西アジアのイスラエルでよく食べられるシャクシュカという料理もトマトに香辛料を入れたスープが用いられ、トマトが味の主たる部分を占めている。 トマトがよく料理に用いられる地域の特徴として、エジプトやイタリア、イスラエルなどの地中海性気候の地域、そしてウズベキスタンなどのステップ気候の地域と、比較的乾燥しているという点があげられる。こうした地域でトマトがよく食べられているのは、トマトには多くの水分が含まれ、乾燥地域ににおいて水分が摂取できること、また酸味が強いので羊肉の臭みを消し、かつスパイスとの相性のもいいからではないかと思う。 ラグマンに使われるスパイスはクミンシードやコリアンダー、ローリエなどがある。特にクミンシードは「とりあえずクミンシードを入れておけばそれらしい味になる」と言われるほど、現地では多用されているスパイスである。実際、プロフやサモサ、マシュフルダやシャシリクなどの料理のレシピを見ると、ほとんどすべての料理でクミンシードの文字がみられる。 (↓日暮里の中央アジア料理店「ザクロ」のサモサ) ここまでウズベキスタンのラグマンについて述べたが、ラグマンという料理は中央アジア全域で見ることができる。また、中国のウイグル自治区にもラグメンという名で類似の料理が存在する。(これは先日新宿のウイグル料理店「タリム」で実際食べる機会に恵まれた。それについては後日また報告しようと思う。) ラグマンは東に行くと拉麺と名前を変え、さらに東に行きラーメンという名で日本に広く存在している。 中国や日本など東洋発の麺と、トマトやスパイスなどヨーロッパ・西アジア発の食材を用いたスープが出会い、そして中央アジアでよく食べられる羊肉を具として一つの料理が出来上がっている。ラグマンという料理ひとつをとってみても、シルクロードという壮大なルートを通した東洋と西洋の文化交流の歴史を見ることができる。 今回のウズベキスタン訪問では、ここまで大きな交流とはもちろん行かないが、ウズベキスタンと日本の文化交流が図れたらと思う。 ○参考文献など 食事の歴史 先史から現代まで ポール・フリードマン編 南直人+山辺規子 監訳 世界の食事おもしろ図鑑 森枝卓士 家庭で作れるロシア料理 荻野恭子 料理 沼野恭子 エッセイ 世界の料理 サカイ優佳子・田平恵美 編 「讃岐うどんの作り方」 http://www.flour-net.com/archives/2007/06/post_18.html (文、写真:理科二類二年 間下)

レギスタン広場の歴史と建築

カテゴリー: 中央アジア散歩

レギスタン広場はウズベキスタンの古都サマルカンドに位置する観光名所の一つである。名前はペルシャ語で「砂の場所」を意味する言葉であり、サマルカンドの歴史において中心的な存在であった。元々この地は商業地であったが、そこの様相を変えたのが15世紀に中央アジアを支配したスルタン、ウルグ・ベクである。 中央の広場を囲むのは3つのマドラサである。正面から見て左側に位置するのが1420年に建てられたウルグ・べク・マドラサ、それと向かい合うように右側にあるのが1636年に完成したシェル・ドル・マドラサ、そして中央奥には1660年にできたティリャー・コリー・モスクマドラサがある。これらのマドラサは200年以上に渡って別々に建てられたものだが、建設当初から計画されていたかのような景観を作り出している。これは「コシュ」と呼ばれる都市デザインの手法が取られているからである。「コシュ」とはウズベク語で「つがい」を意味し、レギスタン広場のシェル・ドル・マドラサのように、既存の建物とつがいになるよう向かい合って建てたりすることで整理された街並みにする方法である。 マドラサとは「学ぶ場所、学校」という意味で、9世紀以来各地で建てられたイスラム世界の教育機関である。教育は二つのコースに分かれていて、コーランの暗唱や解釈などを学ぶコースと学者を育成するためのコースがあった。 マドラサで教えられていた科目は主にアラブ語、タフスィール(コーラン解釈学)、シャリーア(イスラム法)、ハディース(預言者ムハンマドの言行録)、論理学、ムスリム史である。 マドラサはイスラムを広く伝える以外にも、孤児や貧しい子を教育するという使命を持っていた。また、中には女性を受け入れるものもあったという(無論、男女別学だが)。 レギスタン広場のマドラサを一つずつ紹介していく。最初に建てられたのが1417年から3年間かけて完成したウルグ・ベク・マドラサである。ティムール朝第四代君主ウルグ・ベクの命によって建設された。中庭にはモスク・講義室・寄宿舎があり、学生が生活していたフジュラが約50室存在する。ウルグ・ベクはこの他にも2つのマドラサの建設を命じたが、ウルグベク・マドラサが建築・教育機関の点において最も優れていた。17世紀までマドラサとして機能した後、一世紀以上は穀物倉庫の役割を担っていたが、20世紀前半にはまた教育機関として利用されるようになった。 次に建てられたのがウルグ・ベク・マドラサの「つがい」、シェル・ドル・マドラサである。シャイバニ朝君主ヤラングドゥシュ・バハテゥルの命により1619年から1636年にかけて建設された。形はウルグ・ベク・マドラサを模して設計されているが、君主の権力を誇示するため装飾が派手になっている。「シェル・ドル」は「獅子」という意味を持っており、イスラム建築には珍しく動物の絵が正面に描かれているのが特徴である。イスラム教では偶像崇拝が禁止されているため人物や動物画は基本的に描かれないが、シェル・ドル・マドラサには白い鹿を追う獅子と、その背景に顔のついた太陽が描かれている。 最後に、1646年着工、1660年完成のティリャー・コリー・マドラサが二つのマドラサの奥に建てられた。このマドラサは当時のサマルカンドの繁栄を示しており、「金で飾られたマドラサ」という名前の通り豪華な金の装飾が施されている。17世紀に損傷したビヒ・ハーヌム・モスクの代わりとして、メッカを向いたモスクを兼ね備えている。 文責:文科二類2年 末松

ウズベキスタンとマハッラ

カテゴリー: 全般

中央アジア、その中でも実際に現地を訪れることになったウズベキスタンに関して調べていく中で私が興味を持ったのが「マハッラ」と呼ばれるものである。しかし、ウズベキスタンについての認知度がまだ低い日本において、この国に特徴的な制度であるマハッラというものを知っている人はそうはいないと思う。ウズベキスタンにおいて常に人々の中に存在してきたマハッラ、この記事ではマハッラとはどういうものかについて私なりに書いていこうと思う。   帝政ロシア時代、ソ連時代、ソ連崩壊後ではその位置づけなどが異なっているため、以下では伝統的なマハッラに関して述べようと思う。マハッラとは?それを簡単に言うと、ウズベキスタンにおけるオクソコルと呼ばれる長老を中心とした地縁共同体のことである。ここには日本における町内会の制度と類似するところも多くある(基本的には異なる)。例えば、日本の町内会において共同で葬式や祭りを行うところがあるように、ウズベキスタンでも結婚式や割礼、葬式・法事、宗教的儀礼は伝統的に同じマハッラ内の住民が協力しあい大規模に行われてきた。結婚式や葬式に関しても家族だけでは規模が大きすぎて執り行うことができないことから皆で手伝うというのが慣習のようである。但し、マハッラは非国家組織であることもあり、その活動はあくまでも自発的なもので、参加するしないは個人の自由ではある。実際、マハッラのアイデンティティをもたない都市部の人やウズベク人以外のロシア系民族などの活動への参加は消極的なことが多いようである。 マハッラの特徴の一つとして近隣住民との関係がある。日本の町内会の現状をあまり把握していないため比較は出来ないが、マハッラにおける住民同士のつながりは強く、ウズベク語に「家を選ぶのではなく、近所を選べ」、「遠い親戚より近所の方が良い」という諺があることからもわかる。この住民同士のつながりの形成にはガプ、モスク、グザル、チャイハネという4つのマハッラにおける共有空間が大きく関わっている。ガプというのはマハッラにおける特別な付き合いの形式であり、イスラム教の礼拝堂であるモスク、商店街などサービスの集中する場所であるグザル、そして日本の喫茶店に近いチャイハネでは集まる層などは異なるがどれにおいても人々が集まり世間話などをし一体感を高めることができ、住民がマハッラの一員としてアイデンティティを再認識する空間ができている。 もう一つ重要な特徴として、マハッラでは出来る限り皆で平等に負担し、解決していく精神が見られる。これがよく表れている仕組みが次に述べるハシャルという制度である。ハシャルとはマハッラ内における伝統的な助け合いの仕組みの一つで、この制度で同じマハッラ内に住む人々が互いに助け合って生活を成り立たせている。例えば、マハッラ内のどこかで家を建て直す時にはみなが集まって作業をし、その助けて貰った人は次にどこか他の家を建て直す際には手伝う必要があるといったところにハシャルは見うけられる。   マハッラにおけるこういった特徴を見ていくと、昔の日本の様子が想像され、例えばマハッラのグザルにおける世間話というのはかつての日本の井戸端会議に近いものであると考えられる。しかし、ウズベキスタンのこのような伝統も残念ながら日本が辿ってきたように都市化や欧米文化の流入などの理由により失われつつあるといわれているし、助け合いの精神など集団(全体)主義が伝統的であったマハッラで個人主義が見られているのは悲しいものがある。 欧米文化の流入が悪いとは一概には言えないが、ウズベキスタンにおけるマハッラの役割をどう定めていくべきか考えることは大事で、マハッラを通していかに住民の生活を充実させるなどの実質的なことだけではなく、伝統的なマハッラ内のつながりを維持することも必要であると思う。   参考文献:「マハッラの実像―中央アジア社会の伝統と変容」 ティムール・ダダバエフ 東京大学出版会 「「教育」する共同体」 河野明日香 九州大学出版会 (文責:理科二類二年 栗原)

サマルカンドとウズベキスタン観光

カテゴリー: 中央アジア散歩

人が海外旅行の行く先を決めるとき、その決め手となるのは何であろうか。この疑問は私がウズベキスタンの観光産業について考えるうちに思ったことである。日本人観光客には近場の国(韓国や中国など)に加え、ヨーロッパ(フランス、ドイツなど)やリゾートが人気である。その理由は何なのであろうか。ウズベキスタンには豊かな観光資源があり、古来シルクロードの拠点として栄えてきた歴史をもつにも関わらず、なぜ日本での知名度は比較的低く、人気旅行先とならないのか。ここでは都市の美しさで引けを取らない、サマルカンドの紹介をする。サマルカンドへは、ウズベキスタンの首都タシケントから飛行機(約1時間)、鉄道(約3時間半)、バス(4~5時間)で行ける。 サマルカンドは歴史上シルクロードの中心都市として発展し続けてきた。紀元前4世紀に東方遠征をしたアレクサンドロス大王が「話に聞いていたとおりに美しい、いやそれ以上に美しい」と言ったというほど、歴史的に美しい町として有名であった。その担い手はソグド人であった。一時モンゴル軍の被害を受けるも、14世紀にはティムール帝国の都として繁栄し、今日も「青の都」、「東方の真珠」などと称されるほどに美しい。 ・アミール・ティムール廟 ティムール帝国の始祖、ティムールと彼の息子たちの霊廟である。ドームの青タイルが特色であり、サマルカンドが「青の都」と称される一因である。 (料金:3USドル相当、撮影料金:2USドル相当、ビデオ5USドル相当) ・レギスタン広場 レギスタンとは砂地の意味である。正面と左右のメドレセ(神学校)がその景観をつくる。 (料金:8000スム、撮影料金:3000スム。ビデオ7000スム) ・ビビハニム・モスク 中央アジア最大のモスクである。これもまた青のドームがある。ティムールの命令によって造られた。 (料金:3USドル相当、撮影料金:2USドル相当、ビデオ5USドル相当) ・シヨブ・バザール ビビハニム・モスクに隣接する大きな市場。イスラーム圏特有のバザール経済を体験できるかもしれない。サマルカンドはナンが有名であり、地元の人もお土産で買っていくほどであるらしい。 ・シャーヒズィンダ廟群 ティウールゆかりの人の霊廟が並ぶ通りで、サマルカンドの聖地となっており、多くの人が巡礼に訪れる。ここでも青タイルが多く使われており、壁などには美しい装飾が施されている。 (料金:3000スム、撮影料金:1500スム~) イスラームの都ということで、建築がこの町の美しさの大部分を担っている。それらの壁に施された緻密な模様や、ドームなどに使われている鮮やかな青は一見の価値があると思う。以上に紹介した有名な観光地以外にも、歴史的遺産や、博物館などがある。サマルカンドの歴史は古く、この都市だけのためにウズベキスタンに観光先として訪れる理由は十分にある。サマルカンド以外にも、ヒヴァ、ブハラなど世界遺産となっている都市や、世界史をやっていた人ならきいたことがあるだろうフェルガナもウズベキスタンにあるのである。 しかし、私も現にこの授業にふれるまで訪れようと思ったことはなく、日本人観光客は1万人以下と少ない。以下はあくまで意見であるが、理由のひとつには、ウズベキスタンという国の知名度が日本では圧倒的に低いことが挙げられるであろう。さらに日本国内での広報に改善点があるのではないか。「サマルカンド」という都市名をとウズベキスタンという国名にリンクさせることは重要であると思う。ツアーを組み、扱っている旅行会社も少ない。旅行会社が扱っていないとなると一般旅行者の目には泊まりにくい。旅行会社がツアーを組みにくい点はあるのか。日本で信用できるウズベキスタンの情報が非常に得にくいことは、調べている過程でぶつかった。しかし逆に考えると、開拓の余地があるということでもある。 観光地自体にはどのような課題があるか。上記に列記したことからもわかるように観光料金とは別に、撮影料金を徴収している。非効率的、かつ観光客への印象が悪くなってしまう。交通の便は良いとは言えないものの、悪くはないと思われる。国内の飛行機が全て首都タシケント発着で、他の都市間を結ぶ便がないことは移動時間や、快適さを重視する人にとっては不便である。しかし、都市間の移動は鉄道や、バスで可能である。都市内の移動は都市により異なるが、サマルカンド市内はバスがあり、市自体がそんなに大きくないため一日でまわることも可能である。 実際に訪れてみて、観光地がどのようであるか、日本人観光客を呼び込むために何が足りないか、現地の大学生との交流を通じて私たちが事前に調べ考えていたこととの相違を明らかにしたいと思う。   文:文科二類二年 高川めぐ

高麗人と韓国政府

カテゴリー: 全般

1.高麗人の歴史的背景と現状 長い間韓国との交流が絶たれていた高麗人に対して韓国政府が法律を制定するなど支援し始めた背景には、ソ連の解体とCISの諸国が独立がある。CISの諸国が独立しにつれて、数年間各国がロシア語でなく、自分の国の言語である固有言語を勧めるなど民族中心主義政策を実してきた。それによってロシア語しかしゃべれない高麗人、CISの諸国では異邦人である高麗人のなかでは沿海州に移住している動きが見えている。しかし、移住の家庭で国籍を証明するような書類を紛失してしまったり、国籍取得の機会を逃してしまった一部の高麗人は他の地域に居住している高麗人に比べて経済的に、社会的に困っている。現在、約5万人に達する高麗人が無国籍または法的な地位不安定の問題で教育や医療恵沢など基本的人権を享受できない状態におかれていると報告されている。このように、現代に入って自分の居住国で安定した生活が維持できない高麗人が増えるにつれて、韓国政府は高麗人の滞在資格取得を支援し始めた。そして、2010年5月に「高麗人同胞合法的滞留資格取得および定着支援のための特別法を制定し、今年の11月から実施する予定である。 2.無国籍高麗人への支援政策 無国籍高麗人のなかには、自分の元の所属国が発行したパスポートは持っているが、期限が切れたり、パスポートを失ってしまったり、またはソ連時代のパスポートを新しいパスポートに変えられなかったため、不法滞留者として生活している場合が多い。ロシアや元の所属国で申し込むと発行してもらえる場合もばるが、その手続きが非常に複雑であり、かつ、費用の時間もかかるためあきらめてしまうのである。中央アジアの国は海外移住を告げなかったことに対して非常に厳しい政策を採っているため、無国籍高麗人は有効なパスポートやビザがなく、雇用、医療、教育などの分野で基本的な恵沢をもらえなく、いつも追放の恐れのなかで最貧困層として生きていくしかない。 このような高麗人の問題に対して、ウクライナはうまく対処している成功例のひとつである。韓国大使館は内務部・労働部・地方主政府などが全部協力し合って個人とのかかわりを持ち、高麗人が合法の滞留資格が取得できるように努めてきた。ウクライナ政府も高麗人の問題解決に協力している。ウクライナ政府は一定の罰金を払えば短期滞留資格は取得できるようにし、雇用契約書を提示すると動労許可まで発行することにした。また、パスポート発見の手続きも簡単にした結果、ウクライナで新しく国籍を取得した高麗人は約150人、永住権を取得した高麗人は200人など、合法の滞留資格を持ってる人の数が増えている。 しかし、合法の滞留資格を続けて持っているためには労働許可資格を続けて持っていることが必要であり、そのためには60ドルに相当する税金を払わなければならない。これは所得が低い人々に対してはかなりの負担であり、より根本的な解決方法が求められているところである。この問題の解決のため、韓国大使館は微小金融と農業教育を実施する予定である。要するに、滞留資格の合法化のため自立する維持がある高麗人に対しては農業教育を実施し、実践計画も提出する場合、低利子で資金も提供することを計画している。 残念なことに、今のところ韓国政府と高麗人はそこまで深い関係は持っていないと考えられる。高麗人も第1世代や第2世代くらいだけが韓国語がしゃべれたり、韓国に愛着を持っている程度で、彼ら自身も韓国人という意識が薄いが、元は一緒である高麗人により関心を持って支援していきたいものだと思う。 (文科一類二年 キム・ヘジン)

中央アジアと高麗人

カテゴリー: 全般

1.高麗人の歴史と現在 現在、海外に約55万人の高麗人がいると報告されており、その大体が中央アジアの国々に住んでいる。ここで高麗人とはどのような人のことであるか。高麗人とは、旧ソビエト連邦の領内に住み、現在はCISの国籍を持つ朝鮮民族の人々のことであり、もとの居住地は朝鮮と境を接した沿海州である。もともと沿海州に住んでいた高麗人は1930年代後半から第2次世界大戦にかけて中央アジアに追放され、現在の主な居住地はウズベキスタンとカザフスタンである。 それでは、高麗人はなぜ沿海州から何千キロも離れた中央アジアに行ったのだろうか。そこには高麗人の強制移住の歴史がある。19世紀以降、李氏朝鮮北部から国境を越えて沿海州に定着しながら高麗人集団が形成された。その後、1910年に日本帝国と大韓帝国が合併され、1924年にはロシアでソビエト連邦が成立された。日本とソ連は対立関係におり、沿海州に定着していた人々は日本と関係がないにもかかわらず、スターリンの政策によって1937年中央アジアに強制移住させられることになってしまった。 高麗人の強制移住は非常に厳しいものであった。18万人の人が40日間6000kmに達する距離を移住させられたが、この遠い距離を高麗人は貨物列車に荷物のように乗せられて移住させられた。貨物列車であっただけに、列車にはトイレも、お水もなく移住過程で多くの人が病気で亡くなってしまった。また、トイレがなかったため列車が止まったときに線路におりて用便をみる人もいたが、列車が出発するときそれに気がつかず、線路に挟まって死んでしまった人もいた。このように非常に劣悪な環境を生き残った高麗人は人が住めなくて離れた土地に降りさせられた。そこには農場も、家もなにもなかったが、高麗人はここでまた頑張ってファン・マングム農場やキム・ビョンヒァ農場など農業に成功した例がたくさんある。 このように何もない状況で成功してきた高麗人はその能力や努力が認められ、社会での地位も高くなり、自ら中央アジアを自分の第2祖国に思うようになった。しかし1991年ソ連解体以降、民族政策で生活基盤が崩壊し、沿海州に再移住して現在約5万人が沿海州に住んでいる。 2.高麗人社会とネットワーク 高麗人は自分たちのネットワークはある程度持っているが、まだいろいろな問題が残っている。まず、協会の代表性および組織間の葛藤が依然と存在する。全露高麗人連合会、民族文化自治会は近年韓国からの支援をもらっているが、全露高麗人連合会に傾いている傾向がある。韓国の支援が葛藤の原因となってはいけないため、これから体系的な研究が必要だと思われる。2番目の問題として、主要大都市が情報を独占しているという問題もある。韓国大使館が設置されている大都市ではないと、支援情報が手に入りにくいため、大使館を通じなくても情報が得られるよう高麗人協会の活用が必要である。3番目の問題は言語の問題である。高麗人にとって韓国語の重要度は第3外国語程度であって、まずは現地語、つぎは英語またはロシア語であって、その次が韓国語である。韓国語を勉強している人は中央アジアに進出している韓国企業で働きたいと思う人が選択的にやっているだけで、今のところ韓国語は高麗人にとってそれほとインセンティブのある言語ではない。ただ、将来韓国人と高麗人の交流がより活発になることが望ましいと考えると、韓国語の教育はネットワーク形成において重要な問題であろう。最後に整っていないインターネット環境の問題がある。若者のなかではインターネットの使用率が増えているが、高麗人とのネットワークのため使っているわけでなく、全体としてみたコンピュータの普及率はそれほど高くないため、まだいろいろな問題がある。また、ここでもまた言語が問題となって、韓国語とロシア語の両方が必要という問題がある。 このようにまださまざまな問題があるが、韓国と高麗人をつなぐにはネットワークの役割が重要になるため、より効率的なネットワークを構築するための努力が必要だろう。その具体的な方案としては、人的ネットワークを作ってシンクタンクを構築し、必要な人材を勧告と現地の適材適所に配置すること、韓国関連の多様なプログラムを企画して文化院や教育院の機能を強し、韓国訪問実現すること、インターネットの利点を十分生かして長いスパンで有効な手段に作ることなどが考えられる。 (文科一類二年 キム・ヘジン)

証券所取引システムと経済進出

カテゴリー: 中央アジア散歩

2011年8月29日の日経新聞からの抜粋となるが、韓国の株式市場を運営する韓国証券取引所(KRX)がウズベキスタンに証券取引所システムを提供する契約に基本合意した。中央アジアはこれから経済成長が見込まれており、ロシアは旧ソ連圏への金融面への影響力保持を目指してカザフスタンなどにシステムの売り込みを行っている。韓国ロシアは中央アジアの国に証券売買システムの供給をきっかけに自国の金融機関の進出や経済的な影響力の拡大を行うという思惑を持っているようだが、元々ロシア韓国共にウズベキスタンとの経済面での関係は深い。例えばロシアに関してはウズベキスタンの第一の輸出輸入相手国で、輸出に関しては全体の17.2%、輸入に関しては全体の24.8%を占めている。韓国に関しても、ウズベキスタンの輸入相手国では中国に次いで第三位に入っており、全体の12.9%を占めている。ロシアは旧ソ連圏という繋がり、中国はウズベキスタンと地続きになっているから貿易量が多くても不思議ではないが、韓国がここまでウズベキスタンとの貿易を活発に行えている理由は何なのか。実は韓国はもともと官民一体となってのウズベキスタン進出が行われており、進出分野も資源エネルギーに加えて、エレクトロニクス・繊維・自動車・建設・通信と多様で、中小企業を含めて200以上の企業がウズベキスタンに進出しているようだ。一方我が国日本の進出状況はどのようになっているのか。政府の行動に関しては、 2008年に日ウ投資環境整備ネットワークが開かれる。2011年に海江田万里氏がウズベキスタンのレアメタル開発に向けて協調することを決めたなど、かなり遅めの動きである上に民間企業はほとんど進出していない。実際に進出している企業は16社にすぎず、貿易に関しても輸出では2008年7600万ドル、2010年7700万ドルと実質的に伸び悩んでいることが分かる。ちなみに、ウズベキスタン全体の輸入総額は71億ドルと日本からの輸入は全体の1%にしか過ぎない。日本は韓国などの国に比べて、官民一体の行動が元々希薄であるように思える。近年盛んになっている途上国へのインフラ輸出に関しても民間企業の進出が先行し、官民一体となっての動きが見られるようになったのは韓国などに比べて非常に遅い。最近でもトルコへの原発輸出に関して管元首相の発言がトルコ側の不信を招き、結果として交渉の遅れをもたらし欧州勢の売り込みが発生した。官民一体となっての動きという点では韓国に見習うところも多いのではないだろうか。 しかし日本はODAなどの経済協力では2004年から2008年にかけて2006年を除いて金額では常に一位である。支援などをウズベキスタンとの経済関係の発展にもう少し活かすことができるのではないだろうか。自分自身も民間におけるウズベキスタンと日本の交流の発展の一助となるべく今回の訪問では頑張りたいと思う。 参考文献:JETRO ホームページ(htp://www.jetro.go.jp/world/russia_cis/uz/basic_01/#block6) 外務省ホームページ(http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/kuni/10_databook/pdfs/03-01.pdf) 2011 Data Book of The WORLD(二宮書店出版) 文責:二年文科Ⅱ類八木雄介

バザール経済

カテゴリー: 中央アジア散歩

経済体制と言うと常識的に市場経済(資本主義)と計画経済(社会主義)の二種類に区分できる。バザール経済のおもしろい点は、これはどちらにも属さないタイプの経済であることだ。売り手の利益の最大化が究極目的ではない点で市場経済とは異なり、ある地域に居住する人々が依存し合っている経済と言う点で、上からの(公的な)経済である計画経済と異なる。商業が活発であったイスラーム社会に根付いたものなのである。 バザールとはペルシャ語で伝統的なイスラームの市場(いちば)を指す単語である。(アラビア語ではスークという。)西・中央アジアのオアシス都市の、周辺地域の産物の集積地として発達した。このイスラームの伝統的な市場は多数の小路から成り、単に経済的な機能を持っただけではなく、店舗の他に、モスクや学校、茶屋なども存在した。地域に基づいた有機的なつながりであり、従来から自律的であった。これゆえに、近代化によっても容易に解体されず、現在も残っているそうである。 では、バザール経済とはどのようなものなのであろうか。まず商品の値段が決まっていない。たとえ値札がついていてもあてにならない。この経済の特徴は、交渉によって商品の値段がきまることだ。 この市場では情報が非常に重要である。バザールに出回る商品はそれぞれに個性があり、その個別の商品についての情報を確実に入手することが良い買い物をするために求められることなのである。市場では人と情報が入り混じっているため、広範に情報を集めるのは得策ではなく、安定した取引先から深い情報を得るようにするのが有効であるとされる。取引先としても、自分にとって誠実な客を信頼によって確保するのである。商品の価格は、商品の質だけではなく、相手との関係によって決まってくるのである。相手との信頼関係の度合い、取引実績、相手がどれだけ有用な情報を持っているか、などである。情報が真実であるかどうかは自己責任によって判断するわけだが、ここにはイスラーム的倫理観が根底にあるといえる。 地域に密着した経済ということで、公的にその実態を把握することは難しいようである。近代以降、国家単位で経済力がはかられるようにもなったが、バザールには国家に測りかねる側面があり、その意味でインフォーマル・セクターとして区分される部分を含む。バザールはイスラームに根付いた有機的なつながりを含み、殊にイランにおいては寄付を管理していたイスラーム法学者のウラマーはそれを公共性の高いことに運用し、商人が財政力により地域の経済を支えることで、国家に対抗する力を有した。1970年代の反体制運動ではこのネットワークが重要な役割を果たしたとされる点が興味深い。ウズベキスタンにおいては旧ソ連の計画経済の欠陥による物の不足はこのインフォーマル・セクターを活性化させる側面を持っていたという指摘もある。このような政府が把握できない経済活動に課税できないという点が課題として挙げられる。もっとも、地域共同体を行政に組み込むことなどがされているようだが。 「バザール経済」。私がこの言葉を知ったのはこの中央アジアゼミの初回である。経済というとどうしてもミクロ、マクロ、効用関数・・・などなど固いイメージが浮かんできてしまい敬遠しがちな私にとって、この文化的な側面を多分に持つ「経済」は親しみやすく思えた。相互の利益のためとはいえ、商売が信頼によって成り立っているのは弊害があるにせよ素敵なことではないかと思う。今もその制度が残っているのかはわからないが、信頼がその場で清算される現金支払いを嫌い、返済方式が好まれることがあるそうだ。映画などで見る日本にもある「ツケ」の文化と似ているのだろうか。経済の近代化、現代化が進むにつれて、こういった伝統的な経済はどのように変化していくのか。世界中の他の都市がそうであったように、全てが規格化され、画一的な経済に組み込まれてしまうのは少し悲しい気がする。   参考:『「見えざるユダヤ人」とバザール経済』 堀内正樹 『ウズベキスタンの慣習経済』 樋渡雅人 (文責:文科二類二年 高川)  

中央アジア・ウズベキスタンの伝統音楽・楽器

カテゴリー: 全般

中央アジア…というと、独特の音楽、きらびやかな衣装、というのが個人的な印象である。そこで、ウズベキスタンの人々の民俗、生活を知る端緒として、中央アジア、ウズベキスタンの民族音楽、楽器について調べた。 ▼中央アジアの民衆音楽、楽器 中央アジアの伝統音楽は、各民族の十九世紀までの生活形態によって大別することができる。遊牧民(カザフ人や、クルグス人)の音楽と東西トルキスタンの定住農耕民の音楽である。中央アジアでは、これらの伝統音楽を民衆音楽(ロシア語:narodnaia muzyka)と呼ぶことが多い。 遊牧民の音楽はシンプルな弦楽器による独奏や弾き語りである。(例外として、トルクメンは弦楽器と弓奏楽器の小合奏が一般的である。)現在では、主な弦楽器は民族ごとに規格化されているが、元来は多様な地方様式を持っていた。そのため、中央アジア各国に伝わる代表的な弦楽器は似通った特徴を持っている。また、住居を移動させる遊牧民にとって、軽くて移動に便利なものが好まれたため、弦楽器に限らず、民族楽器には軽くて持ち運びやすいという共通点がある。中央アジアの民族楽器は、現代の楽器の原型となるものが多くあるが、古くから東西アジアの交流の中継地となっていたため、これら民族楽器の特徴は一部の東西アジアの伝統楽器にも伺える。たとえば、日本の「琵琶」は、外見だけでなく、弦の仕組みも中央アジアの弦楽器と似ているそうだ。 かつて、文字を待たない遊牧民は、弦楽器の独奏・引き語りによって、口承文芸を後世に伝えていた。カザフ、クルグスには、キュイという器楽独奏のジャンルがあり、各キュイには付随する伝説が伝わっている。かつての演奏者はキュイの演奏に先立って伝説を聴衆に語ったそうである。(歴史や習俗、信仰、世界観などが凝縮されている口承文芸は、人々にとって娯楽であるとともに、自らのアイデンティティを強める重要な存在であった。しかし、現在では、各国に数十から数百の語り手が活躍するばかりになっている。) 定住農耕民の音楽の代表的なものは、マカームという形式の音楽である。これは、マカームという一定の旋法とリズム型に基づいて演奏される組曲で、西アジア全域にも共通して伝わる。マカーム音楽にも地方様式があり、現在にはブハラ、、ホラズム、フェルガナのマカームが伝えられている。固定的な要素と即興的な要素を併せ持つのが特徴的である。マカームで用いられる楽器は非常に豊富で、独奏と斉奏を重視する。 ▼ウズベキスタンの民衆音楽、楽器 ウズベキスタンのお祭り、割礼、結婚式などお祝い事には、伝統音楽と、そして舞踏がつきものである。演奏に用いられる代表的な楽器は、スルナイという管楽器、タンブール、ギジャクなどの弦鳴楽器、ドイラという打楽器、ナイという横笛である。 スルナイ:杏の木やクワの木から作られる。吹き方、形ともオーボエに非常に良く似ている。 タンブール:洋ナシ型あるいは半球型のリュート属撥弦楽器 ギジャク:四本の弦を、弓を用いて演奏する捺弦楽器 ドイラ:タンバリンに似ている。ドイラと歌のみで女性が踊る伝統舞踊の形式がさまざまにある。 ナイ:竹製や木製の横笛。音は尺八に似ている。 ウズベキスタンの民族舞踏は、何度も高速で回転する胡旋舞である。胡旋舞は女性の踊りで、誘惑の踊りであると共に自然や刺繍の様子などを表した踊りである。それぞれの動きには意味があり、肩を上下に動かしたり、首や手の動き、体の反りなどで表現する。 ホルズム・ブハラ・フェルガナ地方の踊りが有名である。 *** 先日、フィールドワークの一環として、ゼミ生と都内の某イラン料理店へウズベキスタン料理を体験に行った。幸運にも、ダンスショーが行われる日で、中央アジアの伝統舞踏も体験することができた。胡旋舞と知っていたし、ネット上の動画で見たこともあったので、どんなものだろう、と軽い気持ちで期待していたが、実物は想像以上に躍動的で魅惑的な踊りであった。とにかく回る回る回る回る、、、それに、速い。私は思わず、お稽古の苦労を想像してしまった。(踊り子はおそらくすべて日本人であった。)首、腰、腕、手先の動きは、とても斬新で、神秘的に見えた。踊り子たちは始終笑顔を絶やさなかったため、どこか妖艶な雰囲気さえ感じた。途中、お客さんがドイラと思われる楽器で拍子をとり、それにあわせて踊り子が上体を反り返らせる、という踊りもあった。クライマックスには、踊り子の誘導でわたしたちゼミ生やほかのお客さんも踊りに参加した。踊り子の見よう見まねでリズムにあわせて踊っていると、私を含めみんなが楽しそうで、店内が一体化しているような心地がした。こんな結婚式やお祝い事は格別にすばらしいに違いない、と思えて、ウズベキスタンに行くのが楽しみになった。おそらく、本場の舞踏はさらに迫力があって、メッセージ性も高いのだろう。ウズベキスタンの伝統舞踏を目に焼き付けて(できるなら、すこしでも体にしみこませて)きたい。 文責:文科二類一年 藤沢

なぜ観光なのか?

カテゴリー: 中央アジア散歩

今日はなぜ僕がウズベキスタンの観光について興味を持ったのか。 また、何を目標にウズベキスタンに行くかについて書きます。 そもそも最初に経済班でウズベキスタンやそのほかの中央アジアの国々の統計データについて調べていた際に、観光収入というデータを発見し、サマルカンドなどの歴史的に有名な都市を始めとした豊かな観光資源があるのに他の国々に比べてあまり観光収入が大きくないことに着目したからです。 ウズベキスタン:観光客107万人、観光収入6400万ドル カザフスタン:観光客127万人、観光収入11億ドル キルギス:観光客244万人、観光収入5.7億ドル トルクメニスタン:観光客8000人、観光収入1.9億ドル タジキスタン:観光客4000人、観光収入2400万ドル(2011 Data Book of The WORLD 二宮書店出版より引用) 五ハン国における観光に関するデータの比較ですが、ウズベキスタンの観光収入は五ハン国の中で明らかに低い(下から二番目)うえに、順位が一つ上のトルクメニスタンの約三分の一ほどしか収入が無いです。 観光資源については負けていることはもちろん無く、世界遺産の登録件数を比較してみても、ウズベキスタン:文化遺産が4個、カザフスタン:文化遺産が2個、自然遺産が1個、キルギス:文化遺産が1個、トルクメニスタン:文化遺産が3個、タジキスタン:文化遺産が1個 となっています。 また、もう一つの理由として日本でも国の経済政策として観光という分野が着目されるようになったことがあります。2009年の鳩山内閣では観光が経済成長分野の柱に位置され、観光立国推進基本法、観光立国推進基本計画によって観光立国の実現が目指されています。観光の形態自体も高度な医療を目的としたメディカルツーリズムなど多様化が進んでおり、非常に興味深い分野となっています。 残念ながら日本の人たちでウズベキスタンに行ったことがあるという方にはほとんどお会いすることがありませんが(実際に日本人のウズベキスタン渡航者は年一万人以下)、SNS上でウズベキスタンに行ったことがある何名かの方々に、ウズベキスタンに行った際の不便だった点・日本人があまりウズベキスタンに行かない原因となっているものは何かとアンケートを実施したところ、不便だった点は公共交通機関や一部施設で写真撮影が禁止されていること、宿泊毎に滞在者登録が必要なこと、悪質な警官がいるなどが挙げられていました。日本人があまりウズベキスタンに行かない原因に関してはほとんどの人が一致して①ウズベキスタンそのものを知らない人が多い②ウズベキスタンと聞くと、アフガニスタンなどを連想し非常に治安が悪そうに感じるという二つの原因を挙げていました。 そこで、僕が今回ウズベキスタンに行く際の個人的な目標として①日本とウズベキスタン双方でお互いの国に観光する人が増えるにはどうしたらよいかについてしっかり考えること②若者である自分の目線から見て日本人の若者が気に入りそうなウズベキスタンの魅力について見つけてくることの二つを設定しました。 現地で深い知識を得るために出発直前まで、読書などを通して観光関連の知識をさらに身につけていきたいと思います。 文責:文科Ⅱ類八木雄介

ウズベキスタンの交通

カテゴリー: 中央アジア散歩

‘ウズベキスタン’と聞いて、明確なイメージを持てる日本人は少ないのではないかと思う。友人や家族などと話していても、「そんなところに行っても大丈夫なの?」とか、「ウズベキスタンって何があるの?」とか、そういったやりとりは数多くあった。実は、私もはじめは同様に、’ウズベキスタン’といえば、高校世界史で習ったように、’文明の交差点’だとか、CISの一員といった漠然としたイメージしか持っていなかった。自分にとって未知の領域に踏み込む、そんな好奇心も働いて、当ゼミを履修するに至った。 私は、’経済班’の一員として、ウズベキスタンの観光産業を中心に調査を進めてきた。その調査の過程においては、様々な困難がつきまとった。例えば、日本語の文献では十分な情報が得られないこと、場合によってはロシア語等でないと情報が見られないということ、あるいは、国の体質として、統計等の情報が十分には公開されていないことなどが挙げられる。もちろん、私の力が及ばない部分が多いこともその大きな一因として挙げられるが、以下に、微力ながら、交通についての簡単なまとめを記す。このとき、班の方針として、’日本からの観光客を呼び込む’というテーマがあるため、そこにも触れながら話を進める。 ウズベキスタンの主な観光地は、首都のタシュケントや世界遺産の存在するヒヴァ、ブハラ、シャフリサブス、サマルカンドである。それらの都市の位置関係は下図のようになる。衛生写真からも分かるように、これらの点在するオアシス都市以外には広大な砂漠が広がっている。             (Google Earthより)   ウズベキスタンにおいては、これらの都市をつなぐ交通手段としては、主に、鉄道、バス(タクシー)、航空機が挙げられる。以下、それぞれを個別に見ていく。 ・鉄道               (OrexCA.com より)   上図がウズベキスタンにおける鉄道網である。先の衛生写真と見比べて分かるように、点在するオアシス都市を通るように敷かれている。オアシス都市をつなぐものとしては、’Registan’,’Sharq’,’Sanaf’といった高速鉄道が走っており、例えば、タシュケント-サマルカンド間を3時間半ほどで、タシュケント-ブハラ間を6時間半ほどで結んでいる。料金は2つの席種に分かれており、それぞれの便において、25,000スムと15,000スム、22,000スムと34,000スムとなっている(1円≒22スム)。 ・バス(タクシー)               (国土交通省ホームページより)   上図がウズベキスタンにおける主な幹線道路である。これも鉄道網と同様に、オアシス都市間をつなぐ大動脈となっている。残念ながら、バスやタクシーについてはなかなか有力な情報源を見つけることができなかったため、主に個人ブログや口コミを参考に情報を収集した。それによると、タシュケント-サマルカンド間は定期バスが走っており、十分に快適でかつ鉄道を利用するよりも割安で済む(7米ドルほど)ということ、サマルカンド以西については、乗合タクシーを利用する場合が多いということなどが分かった。また、交通費は交渉次第で変動する可能性が大いにあり、その価格はドルベースで決められることが多いという。 ・航空機               (Uzbekistan airway ホームページより)   上図がウズベキスタン航空の国内線の就航路である。基本的に、首都タシュケントがハブ空港としての役割を果たしており、主要都市へは一日で複数便の定期便がある。タシュケント-ウルゲンチ間など、鉄道やバス・タクシー等の利用では時間的な負担が大きくなってしまう移動の際によく使われる。一方、価格は割高となり、例えば、タシュケント-ブハラ間は1時間半前後で移動できるが、71,000スムほどの金額となる。   以上、3つの交通手段について見てきたが、料金や時間などについて一長一短があるという印象が残った。しかしながら、それぞれの快適さ、利便性などは実際に利用しない限りは妥当な評価を下すことはできないと思うので、現地に行った際に、自分自身で体験したいと思う。   文:文科二類2年 田村 悠

中央アジアの歴史小話2

カテゴリー: 中央アジア散歩

大宛国の首都 近代以前に中央アジアに興亡した数多の国の歴史には不明な点が多い。このことは前回の記事でも述べたことであるが、今回はそのような謎を解明するために行われた研究の一例として、前回の記事で触れた大宛国についてもう少し掘り下げようと思う。例によって細かいトピックになってしまうが、どうか勘弁していただきたい。今回のテーマは大宛国の首都についてである。 大宛国の首都の所在は明らかでなく、これについて学者たちが様々な説を主張し、その論争は現代に至ってもなお収束のめを見ない。これからその論争の過程を軽く見ていく訳だが、その前に大宛国についていくつか補足しておこう。 大宛国② 大宛国はイラン民族の定着農耕社会であり、人口は数十万の規模であったとされる。その位置については前回述べた通り諸説あるが、ここではフェルガナに存在していたと仮定しよう。大宛とは「広大なオアシス」の意であったらしく、ぶどう酒や馬が主産物であった。「史記」の記述によれば、前述のように、張騫の報告によって汗血馬の存在を知った前漢の武帝はこれを強く欲し、使者を大宛国に送ってこれを求めるも、すでに大量の漢の物産を得ていた大宛の王はこれを拒否、怒った武帝は大軍を派遣し、二度の攻撃の末に宛都と記される「弐師城」を攻略させ、服属せしめた。 弐師城と貴山城 武帝の軍によって陥落した弐師城は、宛都と記されていることから、大宛国の首都であったことは疑いようがない。しかし一方で「漢書」では大宛国の首都は「貴山城」であったと書かれている。ここで様々な憶測が飛び交うことになる。この二つはまったく違う場所でどちらかが誤った記述なのか、はたまたひとつの首都が時代によって異なる名前で呼ばれていたのかといった具合である。この疑問に対する明確な結論は未だ出ていない。しかしながら、現在では二つの都市がどちらも大宛国の都を指しているとの見方が趨勢であるようなので、ここにおいてもこれを前提に話を進めていくこととしたい。 首都はどこか ここまで見てきた分だけを見ても、大宛国は不明な点が多くあることは明らかであろうが、ここでさらに別の疑問が出てくる。大宛国の首都、すなわち弐師城ないし貴山城は現在のどの都市に比定されるのか、というものである。これに対する論争は一時期非常に盛んになり、多くの学者が「弐師」や「貴山」がどのような音に対して当てられたものかという考察や、「史記」「漢書」の記述から地形や川の流れなどから位置を推測する作業などを通してこの謎に包まれた首都の位置を解明しようと努力を重ねてきた。各々の学者が主張する首都の位置はフェルガナ地方を中心に広く散らばっており、それらすべてをここで紹介するのは不可能である。そのためここでは私が興味を持った二つの説を紹介しよう。 A・N・ベルンシュタムの主張 ソ連の考古学者ベルンシュタムは、オシュの郊外に馬の岩壁画を発見し、これを有力な手がかりとして、そこから遠くない位置にあるオシュ河岸の廃墟マルハマトを首都に比定している。彼は問題の岩壁画に描かれた馬の外観がモンゴリアや西アジアのそれと異なる特徴を持っていることを指摘し、これこそが汗血馬を描いたものであり、岩壁画が描かれたこの場所が馬の繁殖を願う信仰の場であったというのである。したがって、首都はここからそう離れていない位置に存在していたと推理し、遺跡発掘の結果堅固な城壁を持っていたことがわかった廃墟マルハマトにたどり着いたのである。ベルンシュタムは発掘報告において、遺跡で発掘された物品が紀元前2~3世紀のもので大宛国の時代と矛盾しないことや、中城や外城の存在が確認されたことも述べている。この説明で筆者は大いに納得したのだが、これだけの調査をもってしても、マルハマトを首都に比定する確固たる証拠はないのである。 「ニサ=弐師」説 もうひとつ紹介する学説は、「弐師」をギリシア人の言う「ニサ」という音に当てた文字であるとする説である。この説は西洋において有力視されており、19世紀から主張されている。一世紀のギリシア人地理学者ストラボンはニサをアムダリヤ川の南西にあったとしている。そうであるとするとニサはフェルガナに存在しなかったことになるが、これも確証はない。それではこの話をもう少し掘り下げてみよう。 ニサはギリシア神話において酒神バッカスがニサのニンフたちに育てられたというエピソードからきているが、この地名はアレクサンドロス大王の遠征以前からこの地域にいくつも存在している。それらがすべてこの神話からきているとも限らず、たかが二音節のため偶然の一致とも考えられる。ニサという地名が酒神とかかわりがあることからぶどう酒が連想されるが、フェルガナ以外の地域でもぶどう酒は広くつくられているためヒントとはならないだろう。いってしまえば、仮にニサ=弐師の学説が正しいとしても、そのニサが現在のどこに当たるかを突き止めるのは不可能に近いのである。 これからの展望 ここまで大宛国にかかわるいくつもの研究を紹介してきたが、多くの学者の懸命の努力にもかかわらず、いずれも答えは出ていない。当然、私のようなシロウトがこの問題に対して解決の光を当てることなど到底かなわない。しかしながら、現地で大学生に対してのヒアリングを通し、現地の人がこの問題に対してどのような認識を持っているのかを(おそらく大半の人はこの国の存在すら知らないかもしれないが)調べてみたい。ほかにできることといえば、ウズベキスタンの地に立ち、はるか昔にこの地を駆け抜けた名馬に思いをはせることであろうか。 文責:文科二類二年 藻谷

政治体制

カテゴリー: 全般

リビアでカダフィ政権が倒れた。 自国民に対する非人道的な抑圧と殺戮を長年にわたり続けてきた支配者を追放し、民主化の旗を振りかざす反カダフィ勢力の姿は、ともすると微笑ましいものなのかもしれない。 しかし今後「アラブの春」が平和裡に戦地を包み込んでいく光景は想像し難い。また、「独裁=悪」の類の絶対的観念が我が国においてどうも拭い去られていない感がある。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この文章を綴るまさに今の、民主主義の日本の政治体制を考えさせられる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ アンディジャン事件およびその後の外交姿勢を欧米よりの視点で捉えると、カリモフ大統領を長とする権威主義体は、その性格の一面をひどく強調され、人権侵害が云々という議論にしか発展しないようにも思えてくる。 統計データや契約内容の不透明性ゆえに信頼醸成に至らない、近代国家に求められる法律が整備されていない、そういった点から西側諸国ないし国際的なファンドから融資を受けにくくなり、例えばインフラ不足という事態の解決を遅らせうるものかもしれない。 一方で、発展途上国が国内産業育成などを主たる目的として幾分か強権的になることは歴史の中で珍しいことではないことと思う。地理的・文化的な密接性、貿易相手や輸送ルート(内陸国のウズベキスタンが海洋と結びつくにあたっては新疆ウイグル経由で連雲港につなぐのが簡便。(ジェトロ「中央アジアで拡大する中国のプレゼンス」2008年、ジェトロ 62頁より))といった経済的重要性を鑑みたうえで、政治体制の理解にさほど齟齬をきたさない中国との関係を良好に保つことだけを第一義的に考えることも十分に最適解たりうる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 中央アジア外交の舞台に日本の姿は目立たない。ただ日本の資金援助(下表参考)は、地域別に見て比重が小さいという見方もできる一方で、各国と比較した際には十分な貢献度を保持してきていることは否めまい。「対シルクロード外交」や「中央アジア+日本」を標榜するその姿勢を顕在化させるためには、今以上のプレゼンスと独自性が必要ではないだろうか。 両国の間に複雑な歴史的背景があるわけでもないし、内政干渉擦れ擦れの政治問題を俎上に載せることなく、その潤沢な資金と民間団体とによる効用をどう最大化するかに絞っていくのもよいと思うのだが、どうだろうか。 相手国の政治体制への違和感が協力の足枷となるようでは勿体無い。 出典:外務省 政府開発援助(ODA)国別データブック 2010 (文 : 文科Ⅰ類2年 野崎拓洋)

ウズベキスタンの結婚式

カテゴリー: 中央アジア散歩

前回はウズベキスタンの「今」を象徴するウズベキスタン・ポップスを紹介したので、今回はウズベキスタンの伝統儀式の一つである結婚式について紹介したいと思う。結婚式ももちろん音楽と舞踊をこよなく愛するウズベキスタン人がよく表れている儀式だ。 ウズベキスタンの伝統的な結婚式は人生の一大イベントであり、親族がたくさん集まって行われる。田舎では今もこうした伝統的な結婚式が多く行われており、ホテルでの結婚式が多くなってきている都会でも内容においてはウズベキスタンの伝統を色濃く見ることができる。 伝統的な結婚式ではまずホトハ・トゥイと呼ばれる婚約の儀式が親の賛成と祝福によって段階ごとに行われる。成年に達した男性の親は息子にあう女性を探し始める。女性が見つかると、親とおばさんたちは女性の家に行き、息子にあう女性かどうかを判断する。あうと判断されれば、仲介人が選ばれ、仲介人は婚約日を発表、女性の家に女友達や親せき、マハッラの長老たちが集合、儀式を執り行う。ここでPATIRと呼ばれるパンを切り分けることで婚約が確定する。終わりに仲買人は結婚式の日付を決定、仲買の皆には女性の親からレピョーシカと菓子がくばられる。 結婚式の日の一大イベントといえば何と言っても朝プロフだ。朝の5時から200名ほどの客人にプロフを振る舞う。これは、花婿から送られた米、油、にんじん、羊の肉を用いて花嫁の家で行われる。朝プロフは男だけの行事で、食べるのも男なら作るのも男である。伝統的な歌を歌う歌手なども呼ばれて食事会が催される。 朝プロフが終わると花婿と花嫁は、結婚届けを提出しに行く。この後、レストランに集合してまた歌を聴きながらの食事会が催されることもある。 夜には盛大な披露宴が催される。これはとても大きな規模のもので、また歌手を呼んで食べ、歌い、踊る宴会の時間が続く。このとき呼ばれる歌手は国でも有名な歌手であることが多く、紅白歌合戦のような盛大な結婚式が行われる。これはウズベキスタンの結婚式の大きな特徴であろう。このダンスの時間には祝儀のお札も飛び交う。 披露宴が終わると新郎は新婦を連れて帰る。そして、翌日の朝には新婦の挨拶という行事がある。花婿は花婿の友人によって連れて行かれ、花嫁は伝統的なショールをかぶって挨拶に来るみなに挨拶を返す。 これが終わると結婚の二日後にはまた、新婦の両親による女性だけのパーティーが開かれる。これはお互いのことをよく知るために行われるのだそうだ。 こうしたウズベキスタンの結婚式には200~400人の人が集まり、楽しいお祭り騒ぎが続くのである。 このように、ウズベキスタンの結婚式は、もちろん個人の祝いの席であるが、それと同時に家族・親族の祝いとしての機能も果たしているといえるだろう。それはコミュニティの中に新しく新婦という他からの人員が増えるお祝いの席であり、また新郎のコミュニティと新婦のコミュニティが新しく関係をもつお祝いの席でもあるのだ。結婚式には大勢の人が呼ばれるし、朝プロフなど結婚祝いの準備は家族・親族によって行われる。新婚夫婦が自分たちで全てをセッティングし、お祝いに人を招く欧米流の結婚式とは趣向も異なったものになる。 欧米では「私」とは独立した個人としての私であるが、それに対してウズベキスタンでは「私」とはコミュニティの中におけるあるいはコミュニティ同士の関係性における「私」であるのだ。こうした共同体への考え方は一昔前の日本にも似ているだろう。 ウズベキスタンでは近年マハッラの見直しが進んでいることもあり、政府を中心にこうした共同体の働きをより強めようとする働きがあるようだ。一方で若者を中心に生活はどんどんと欧米化してきており、結婚式もホテルで行われることが多く、今は親同士が決めた結婚ではなくて男女が自分たちで知り合って結婚ということも都会ではよくある。 生活スタイルが変わっていく中でいかに家族・親族、またローカルなコミュニティを維持していくのかは大きな課題であるだろう。生活の変化に合わせて個人を個人として規定していくようになれば、大きな自由が生まれ対等な立場の個人が出現する。一方で、そうした変化によりローカルコミュニティは消失し人々は存在のよりどころを失ってしまう。逆に共同体の力を強めていくことは生活基盤としての地域社会を提供するが、共同体が過度に機能すれば個人の抑圧やコミュニティ間の対立起こる可能性がある。 そうした中でこれからウズベキスタンがウズベキスタンとしてあるために作り上げていくべきコミュニティと個人との関係性の匙加減は、伝統かモダンかという問題とも相まって大きな影響を及ぼしているのではないかと思う。 (2年文科二類 鈴木)

ウズベキスタンポップス

カテゴリー: 中央アジア散歩

日本においてはウズベキスタンの認知度はまだまだ低く、砂漠、シルクロード、サマルカンド…といったイメージがある程度なので、伝統音楽ならばいざ知らずウズベキスタンポップスといえばその認知度はさらに低い。しかし、ウズベキスタンポップスはなかなか味のあるもので日本にもコアなファンは少数ではあるが存在するし、大きなCDショップでは片隅にほんの少しだけだが紹介されている。音楽と踊りをこよなく愛するウズベキスタンの人々にとってポップスもまた生活に大きな比重をしめているようで、みなMP3で好きな音楽を聴いているらしい。 文化を考えるとき、伝統と最先端の中で何を自らの文化としてこれから押し出していくのか、というのはウズベキスタンのみならず日本においても重要な論点だ。そこで今回はこのポップスに焦点を当てて考えてみたい。 ウズベキスタンポップスはウズベク音楽の伝統を感じさせるものでその独特のこぶしの利かせ方は欧米や日本ではなかなかお目にかかれないようなものが多い。曲の終りに長い絶叫がはいるものが多いし、前奏や間奏で際立つ弦楽器の旋律はまさに中央アジアを感じさせる。とはいえ、欧米でよくあるポップスの一種であることは確かで種類もラップのようなものからバラードのようなものまで様々ある。またプロモーションビデオなどでは最先端のもの、今ウズベクの人々に「かっこいい」と思われているものを少しだけ感じ取ることができる。かなり露出度の高い衣装と、曲によって全く雰囲気を変える化粧ははじめて見た私にとっては驚きであった。プロモーションビデオはクオリティの高いものが多く、日本で見られるものとほぼ同様だが、ストーリーもののコミカルな(?)ストーリー設定や夢を見ていただけだったというパターンが多いことなどは特徴といえるかもしれない。また一方で、伝統のアトラス模様の衣装でタシケントやサマルカンドなどの有名観光地で歌うプロモーションビデオも少数ではあるが存在し観光ビデオとしても有効そうで興味深い。 今ウズベキスタンで人気の歌手は、女性歌手ではRAYHON,SHAHZODA,SOGDIANA,LOLA,そして忘れてはいけないYULDUZなど、男性歌手ではSHAHZOD,BOJALAR,OYBEKなどだ。少しだけ取り上げて見るとYULDUZはウズベキスタン音楽界のまさに大御所で、日本人でも知っている人が多い、数少ないウズベク歌手の1人だと思われる。彼女は政府とも深いつながりがあったようで、国の大きなイベントなどでよく歌っていたのだが、2005年政府と関係が悪化して、今はトルコで活躍している。また、SOGDIANAはウズベキスタン生まれだがはじめはロシアで歌手として成功し、その後ウズベキスタンに逆輸入された歌手だ。SHAHZODAは美貌の歌手でロシア進出を進めているがそちらの方はあまりうまくは進んでいないそうだ。 こうして見てみると、ポップスにおけるウズベキスタンと周囲の国々との関係はなかなか興味深いものがある。ウズベキスタンにおいて、隣国のロシア、トルコはポップスに限らず最先端をいくお隣さんのようで、ファッションなどをみてみてもロシア製、トルコ製の洋服は少し高めでおしゃれ、と捉えられるらしい。音楽についても似たようなものがあって、ウズベキスタンは旧ソ連圏でロシア語が広く話されていることも手伝い、ウズベク歌手にとってロシアへの進出というのは一つの夢であるようだ。日本人歌手が欧米圏への進出を目指すのと似ているのだと思う。 一方でウズベク歌手のロシアへのあこがれは第三国の立場で見ると大変に興味深いものがある。歴史的に見てみると、ウズベキスタンをはじめとする中央アジアの国々は19世紀にソ連の支配下にはいった。ソ連以前には民族アイデンティティよりもムスリム・アイデンティティあるいはトゥルク・アイデンティティの方が強かった中央アジアの国々はその支配のもとで民族としてのアイデンティティを確立していった。ソ連の民族政策というのはその支配者ごとに変わる一貫性のないものであったが、それが現在の中央アジアの国々の民族アイデンティティに影響を与えているという側面も大きい。音楽を見てみると、この時代に弾圧された地域固有の音楽もあれば、逆に音楽学校が開かれて重視されるようになった音楽もある。また後者においては西洋音楽の枠組みで編曲や楽器改良がなされたりとソ連による取捨選択が反映されている。 1991年にソ連は解体し、中央アジアの国々は独立を遂げていった。こうして生まれた新しい中央アジア国家は各々その民族意識を強調に力を入れることとなった。そうしてその路線は現在にまで引き継がれているわけだが、その中でウズベキスタンのスター達があるいは若者たちが、ロシアに憧れを抱きロシア進出を望むという「ソ連圏人」としての行動をとるのは皮肉な様で大変に興味深い。と同時に、「欧米文化圏」であることを誇りにする私たち日本人の姿も皮肉として浮かび上がってくるように思う。 (二年文科二類 鈴木絢子)

文献『記憶の中のソ連―中央アジアの人々の生きた社会主義時代―』

カテゴリー: 中央アジア散歩

人間は「未知」なものに対して不思議な魅力を感じるものである。私が中央アジアに興味を持ったのも、中央アジアに自分の知らない世界が広がっているのではないか?中央アジアには自分の知らない何かがあるのではないか?と期待したからである。そうしたことでこのゼミに入った私は、文献を中心として自分なりにウズベキスタンについて調べてきた。 しかし文献にはどうしても、統計データが羅列されていてリアルさが欠けているものや、ある一個人から見た、ある種の「偏見」が入ったものも多い。そうした中で現地の人々のリアルな声を収集するためにウズベキスタンで社会調査を行い、まとめた本がある。それが「記憶の中のソ連―中央アジアの人々の生きた社会主義時代―」(ティムール・ダダバエフ、筑波大学出版会、2010)である。今回はこの本を紹介してみようと思う。 この本の中に収められている調査は、2006年以降にウズベキスタンで行われた、現地に住む人々に対して行われた調査である。調査項目は多岐に渡る。調査においては、なるべく多くのことを聞き出すためにインタビュー方法や質問票に工夫を施している。また著者自身がウズベキスタンの出身であることから、調査に主観が入り、偏りが生じないように尽力している。 調査では様々なことが明らかになるのだが、この中で私が特に興味が惹かれたのが、ウズベキスタンの人々が意外と旧ソ連の時代に対してノスタルジーを感じている、という調査結果である。彼らの中には、かつて存在していた旧ソ連という大国の存在が消失したことに対して悲しみ、そして現在の生活状況と比較して、旧ソ連の時代は豊かな暮らしができていたというノスタルジーを感じる人がいるのである。 こうした現象を目にすると、歴史における「記憶」の重要性と危うさを感じずにはいられない。歴史においてこうした「オーラルヒストリー」的なものを残していくことは重要である。しかし周知の通り、当時のウズベキスタンには他の社会主義国と同様、制限や弾圧、物資不足などの問題が存在していた。にもかかわらず、そうした事実はこのインタビューからは伺いにくい。つまり、彼らは今の状況を悲観しているが為に、かつての旧ソ連の時代を必要以上に美化している可能性が高いのである。 さらにこうした事実から伺えるのは、社会主義国がその負の側面を如何に国民の目に触れないようにしていたか、ということであろう。しかしその実態がどうであったかは、資本主義国に生きる我々には非常に理解しにくい。(私も指摘されるまで気付かなかった)現地に行ってこうした事実の一端でも知ることができたら、と思った次第である。 日本ではなかなかない貴重な調査をまとめた本であり、ウズベキスタンに行く前に一読する価値はあるだろう。是非目を通すことをおすすめする。 (文責:文科二類二年 西田)  

映画『UFO少年アブドラジャン』

カテゴリー: 全般

前回は中央アジアの映画産業についてまとめたが、今回はウズベキスタンの映画作品をひとつ紹介したい。川名君が記述しているように、中央アジアの映画というのはなかなか日本では見られない。その中で、数少ないDVD化された作品である『UFO少年アブドラジャン』という作品を取り上げたいと思う。 『UFO少年アブドラジャン』は1992年にズリフィカール・ムサコフ監督が撮った作品で舞台はソ連時代のウズベキスタンのとある農村である。 ある日、その農村で集会が開かれている最中、議長がモスクワからの電報を読みあげた。その内容は宇宙人を乗せたと思われるUFがその農村に向かっているから宇宙人を発見したら報告するように、というもの。農民たちはUFOを知らないので、空からお客さんが来るらしいとののんびりとした解釈をした。そんな中、農夫バザルバイは奇妙な円盤型の物体が空から墜落してくるのを目撃した。近づくと裸の少年が倒れており、バザルバイは彼を助け出しアブドラジャンと名付け家へ連れて帰るのであった。バザルバイとその妻が面倒を見始めてから、アブドラジャンは次々と奇跡を起こしてバザルバイや農村の人々を喜ばせる、というストーリーである。 実はこの映画、冒頭に以下のようなナレーションが入る。 「拝啓、スティーブン・スピルバーグ様 この間、あなたの作品『E.T』を見ました。とても素敵な作品でした。実は私たちの村にも先日UFOが本当にやってきました。そのことを書いたので読んでください。」 つまりこの作品は、スピルバーグへの手紙を読むという形で語られているのである。私はこのアメリカのポップカルチャーと中央アジアの田舎の組み合わせが、実に面白いと思った。私たちが見慣れている、CGで何でもできるハリウッド映画や我が国の映画とは違う。人間の10倍もあるような巨大なスイカや、糸でつられた鍋をひっくりかえしただけのようなUFOは非常にチープな作りである。だが、この映画を見ると癒されたような優しい気持ちになれる。 この作品が作られた1992年は独立の翌年だ。ソ連の統制下でウズベキスタンの人々がどのような生活を送っていたのかはわからないが、きっと独立時に祖国再建を夢見、希望を持ったことであろう。これから創ろうとする自分たちの国。世界の人々との繋がり。その中で『E.T』に彼らは共感したのかもしれない。侵略者や敵としての異星人ではなくて、友達としての異星人。敵としていがみ合うのではなく、世界の国々と親友として繋がっていきたいという夢が重なったのではないかと思う。この映画からはそのような優しさが感じとれる。 事実ではなくて素朴な農民が書いた「手紙」という形式をとったこと、その宛先が記者ではなくスピルバーグであることがこの話をおとぎ話の雰囲気にしている。その雰囲気の中の低予算・低技術が逆に良い意味での手作り感を作り上げている。映画といえば、普段アメリカ映画などの予算のかかったCGを使ったものに多く触れるが、これもまた映画の形のひとつである。 2002年に大使館主催でウズベキスタン映画祭というものが開催されていたらしい。 中央アジアの映画にはDVD化されている作品が少ないだけに、このような映画祭がもっと開かれて中央アジア映画が浸透すれば、と思う。 (文責:文科2類2年 鹿田)

中央アジアの映画産業と考察

カテゴリー: 全般

私はこのゼミを通して中央アジアの映画について興味を持ち、調査をしてきた。中央アジアの映画は日本ではあまり見る機会がないが、ソ連時代も含め映画製作が活発に行われたこともある。今回はウズベキスタンを中心に映画産業の歴史とその考察をしたいと思う。 タシケントでは1897年、最初の映画の上映が行われたという。当時ソ連は映画を、プロパガンダとして政治的な思想を広めるための利用を国家レベルで考えた。そのため、中央アジアの各地でも1920年代には映画製作の拠点が数多く作られている。ここで製作された映画は当初、ドキュメンタリー映画や短編映画が中心だったがそのうち技術の向上などにより劇映画も作られるようになった。第二次世界大戦に突入すると、ソ連の欧州部にあった映画撮影所は敵国の侵攻を受けて中央アジアに場所を移した。当時の映画の大半がここで作成され、その後の中央アジアの映画産業で働く人材の育成の場とも同時になったのであった。戦後60年代になるとモスクワや現サンクトペテルブルグで映画教育を受けた人々が各地の撮影所で映画を作成するようになった。この時期の映画にはソ連国外でも高く評価されているのもが多い。(川名君が紹介しているボロトベク・シャムシエフの『白い汽船』もその一例である)1991年に各共和国が独立した後は、製作本数は激減した。ソ連の計画経済の下であったら、内容の検閲など自由の利かない部分もあったがその反面予算などは確保されていたため独立後は衰退してしまったのである。 ウズベキスタンに関しては、ソ連時代ではこの地域での映画の製作がもっとも盛んであったのに独立後は衰退した。しかし、90年代末からは政策で年5本前後の製作が国家予算で保証されるようになった。国内の映画館設備は老朽化が激しく、また映画館内のマナーなども悪いという。さらにテレビやビデオを通じて映画が出回っているが、必ずしも国内映画というわけではなく外国映画が多いという。 ウズベキスタンの映画産業は岐路に立っていると思う。現在は、低予算で低技術の映画しか作れず、マーケットを意識しきれていない状況である。もしも映画を産業として、国際的に規模を拡大したいとするのならば、国際マーケットを把握してニーズにあったものを生み出していかなければならない。その動きとして、ウズベキスタンの映画監督には外国との合作を発表している人もいる。 授業中や昼休みに文化班の人とディスカッションを行い、文化面でのウズベキスタン、中央アジアについて話したが、映画に関係していてその時気がついたこととしては、 ・ソ連時代の影響を受けていること ・そのために欧米の文化、流行が主流の国際マーケットに対応できていない ということがあげられる。 例えば設備や映画を作る方法などはソ連からの影響を受けているし、従来の国内向けの作品で国外で評価されているのはわずかな上、前述したように国内でも外国映画ばかりがみられている状況である。 今、岐路に立っている映画産業だが、外国が合作を行う場合も少なからずあり、この地域の映画に対する期待は低くない。今後産業として強化していくのであれば、しっかりと現状を把握しマーケットを開拓して行くべきだと思うが、私個人としては、ハリウッド映画などにはないようなのんびりとした空気の流れるウズベキスタンの映画が好きだ。次回はウズベキスタン映画をひとつとりあげてその紹介をしたいと思う。 参考文献:「中央アジアを知るための60章」 宇山智彦 明石書店 (文責:文科2類2年 鹿田)

タシケントの見どころ&ウズベキスタン観光業考察

カテゴリー: 全般

タシケントはウズベキスタンの首都であり、約220万人以上の人口を擁する大都会である。そこでは中央アジア唯一の地下鉄が走り、高さ375mのテレビ塔を始めとして近代的な大きなビルが立ち並んでいる。古くからオアシス都市として有名で、シルクロードの中継点として、中央アジアの交通の要衝であった。 タシケントの主な見どころの例を挙げる。 ◆クカルダシュ・メドレセ クカルダシュ・メドレセは、16世紀にタシケントの支配者であったシャイバニ朝のクカルダシュによって建てられた神学校。現在でも神学校として使われている。 ◆チョルスー・バザール 地下鉄チョルスー駅を出てすぐの場所にあるバザール。クカルダシュ・メドレセとも近い。タシケントには大きなバザールがいくつかあるが、『古いバザール』と呼ばれるのはチョルスー・バザールだけである。チョルスーは『4本の道で囲まれた場所』 という意味。バザールの中心に青いドームのついた屋内バザールがあるのが特徴になっており、屋外では衣類など日用雑貨が多く、屋内では香辛料やドライフルーツなどが並んでいる。人と物で溢れかえって熱気があり、 日常生活で必要なものは基本的には購入できそうである。 ◆ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場 ウズベキスタンの首都タシケントの新市街にある1500人収容の劇場。1947年に完成した。外見は淡い茶色で、6つの休憩ロビーは、タシケント、サマルカンド、ブハラ、ホレズム、フェルガナ、テルメズの6地方のスタイルで装飾されており、玄関正面の大きな噴水も特徴的である。この劇場は、実は第二次大戦後にタシケントに連れてこられた日本人抑留者の強制労働によって建てられたもので、1966年の大地震でもびくともせず、日本人の建築技術の高さを物語っている。 ◆ウズベキスタン歴史博物館 タシケントの新市街にある博物館。中央アジアでは最も大きい博物館で、石器時代からロシア帝国の征服以降の歴史まで、ウズベキスタンの通史をざっと知ることができる。 最大の見物は、テルメズ近郊のファヤーズ・テペ遺跡から出土した穏やかな顔が印象的なクシャン朝時代の仏像で、他にも二階には石器時代からの鏃や土器、人骨、ゾロアスター教寺院の復元模型、三階にはロシア帝国の征服以後の歴史、独立後の展示品が置かれ、現代の産業についても見ることができる。 ブハラ・タシケントの概要と見どころをまとめたところで、最後に、これまでの調査のまとめとしてウズベキスタン観光の現状と課題について述べたいと思う。 ◆現状 これまで挙げてきたような見どころを始めとして、ウズベキスタンにはシルクロードの起点であったこともあり、歴史的建造物など観光資源が豊富にある。 しかし、日本からウズベキスタンへの観光客は、年間約4千人でビジネス客は約2千人であり、上に挙げたような豊富な観光資源と比べればその数は多いとは言えない。 ◆課題 上に述べたように、ウズベキスタンには観光資源が豊富なのにも関わらず、観光客数が少ない原因としては、交通の便が良くない(例えばウズベキスタン航空の便は週2便と少ない)ことやホテルの施設が良くないことなどがまず挙げられるが、根本的には、観光業を行う基盤が行政側・民間側にも整っていないことが原因である。例えば交通網の整備が不十分であったり、観光客向けのサービスが整っていないことがある。 さらに日本にもウズベキスタン観光を取り扱っているエージェントが少ないことも大きな問題である。そのため、手軽にウズベキスタンに観光に行くことができないばかりか、そもそもウズベキスタン観光についての情報を得ることすら難しい。 知名度やイメージにおいても重要な問題がある。海外旅行をしようというときに、ウズベキスタン観光をしたいと思う人は相当のマニアでない限り殆ど皆無であろう。そもそもウズベキスタンには観光地として「気軽に」行ける国というイメージはなく、治安やテロの可能性といった点で不安を抱く人も少なくないだろう。 先述したように、ウズベキスタンにはいくつかの世界遺産をはじめとした観光資源が数多くあり、サマルカンドやシルクロードのイメージと合わせて世界でも主要な観光地となる可能性を秘めている。そのためには、行政・民間双方から観光基盤を整理し、インフラの整理や、観光客向けのサービスを充実させることが必須である。また、日本のツアー客を募集するための母体が少ないのは、ウズベキスタン側のエージェントが日本側と契約できないケースが多いことが大きな原因となっていることも多いから、ウズベキスタン側と日本側のエージェントが円滑に交渉できるよう環境を改善することも重要である。 また、観光地としてのウズベキスタンのイメージ向上のためには、広報を充実させると共に、治安改善のための努力を重ね、地道に信頼を得ていくしかない。 (文責:文科2類2年 榊原)

ブハラの見どころ

カテゴリー: 全般

ブハラは、ウズベキスタンの都市で、首都タシケントの南西約450kmに位置する。ユネスコの世界遺産に登録されているブハラは、かつてシルクロードの交通の要所として栄え、現在に至るまでイスラーム教の中心的役割を果たしてきた。中世のイスラーム哲学者・医学者であるイブン・シーナーはブハラ出身であり、この地で法典を著したことは有名である。 ブハラの主な見どころの例を挙げる。 ◆カラーン・ミナレット カラーン・ミナレットとはタジク語で「大きな光の塔」という意味で、高さが約46mありブハラで一番高い。1127年にカラハーン朝のアルスラン・ハーンによって建てられた、ブハラのシンボル的な建築物である。 ◆カラーン・モスク カラーン・ミナレットとつながっているモスク。現存している建物は1500年頃建てられたものである。広さは約1haもあり、1万人の信者が礼拝できた非常に大きなモスクである。正面入口は色タイルで装飾され、中央には青いドームがそびえている。 ◆イスマイール・サーマーニ廟 サーマーン朝のイスマイール・サーマーニによって9世紀終わり頃に建てられた、中央アジア最古のイスラーム建築。特徴として、壁面のレンガが日差しの加減によりその凹凸の明暗が変わることで、色が変わって見えることがあり、レンガを積み上げただけでこれほど様々な幾何学的模様を付けている意匠には注目すべきである。サイズは9m四方、壁の厚さが1.8m、日干しレンガを積み上げた構造である。 ◆チョル・ミナル チョル・ミナルとは「4本のミナレット」の意。1807年にトルクメニスタン人の大富豪により建てられた。建物を囲う4本のミナレットと青タイルで美しく装飾された上部のドームが印象的である。 ひとまずここで筆を置き、次回はタシケントの見どころをまとめてから、これまでの調査のまとめとしてウズベキスタンの観光業の現状と課題について述べたいと思う。 (文責:文科2類2年 榊原)

中央アジアの歴史小話1

カテゴリー: 中央アジア散歩

始めに このゼミにおいて私は中央アジアの歴史に興味を持ち、調査を行ってきた。中央アジアはシルクロードの通り道として世界史に名を馳せており、アレクサンドロス大王やイスラーム軍、チンギスハーンといった他地域の侵攻を受け、様々な民族が入り混じって覇を競い、また文化的にも他民族の影響を受けて変容を繰り返してきた。しかし、このように非常に魅力的な研究素材を多く内包しているにも関わらず、資料の少なさもあってか中央アジアの歴史研究はあまり進んでいないのが現状であり、高校の教科書等での扱いも非常に少ない。このような研究対象としてのフロンティア性に魅かれ、私は中央アジア史を調べるに至ったのである。 とはいうものの、中央アジアの歴史は前述のように様々な要素を含んでおり、短期間に深く、且つ体系的に知るにはいささか困難を伴う代物である。したがって、中央アジアの歴史を俯瞰するであるとか、シルクロードの通商史において中央アジアの位置づけを行うといった大それたことはせず、いくつかの小さなテーマを設定し、それについて調べるという手法をとってきた。今回はこのブログでそれらのうちいくつかを紹介したいと考えている。 始めにことわっておくが、これらのテーマは各々がかなり狭い範囲を対象としており、これらの調査の価値を実感できない人が多く出てくるのも至極当然のことである。しかしながら、イスラームにおいて「神は細部に宿る」とも言われるように(かなりこじつけではあるが)、このような地味な調査も歴史を理解するうえで重要になってくるということを強調し、読者各位のご理解を頂きたい。 では、具体的な調査内容に入ろう。一つ目のテーマは汗血馬についてである。 大宛国① 汗血馬について語る前にまずは大宛国について述べねばなるまい。大宛国とは現在のウズベキスタン、タジキスタン、キルギス共和国にまたがるフェルガナ盆地に紀元前二世紀ごろから存在したとされる国である。この国自体は中央アジアにおいて無数に興亡した小国家のひとつに過ぎず、前漢の張騫がその存在を紹介するまではほとんど知られていなかったほどであり、詳細な歴史についてはわからないことだらけである。そんな国を世界史において一躍有名にしたのが、他ならぬ汗血馬である。 汗血馬 ではその汗血馬とはいったいどのような馬であったのか。汗血馬とは読んで字のごとく「血のような汗を流して走る馬」のことであり、(もちろん誇張であろうが)一日に千里(約500km)も走ると言われている。大宛国はこの汗血馬を多く産出したとされ、先述の張騫が汗血馬を大宛国の存在とともに武帝に報告すると、良馬の不足に悩んでいた武帝はこの類まれな名馬を強く欲するようになり、大宛国にこれを求め、最終的には軍をもって服属させるまでに至っている。また、三国志演義に登場する赤兎馬もこの汗血馬をイメージしたのではないかとされる。 汗血馬の正体 このように中国史に登場してくる汗血馬は、実際はどのような馬であったのだろうか。常識的に考えれば血の汗を流す馬が実際に存在したとは考えにくい。この「血の汗を流す」という部分に関してはいくつかの説が挙げられているものの結論は出ていない。ひとつは馬の毛色によって、流れた汗が血の色のように見えたというものである。これは実際にそう見えることがあるということから有力であるように思われる。もう一つの説として、血汗症という症状を起こす寄生虫によって実際に血の汗を流していたというものがある。この説は趨勢であるようだが、汗血馬が血汗症であったという証拠はなく、今となってはそれを知る術はない。他にも寄生虫によって表皮に滲んだ血液が汗と混じって見えたといったような説もあり、想像欲を掻き立てられる。「一日に千里を走る」という部分は間違いなく誇張であるにしても、寄生虫がついた馬が痛みに刺激されて通常より速く走るということはあるようだ。 伝説の名馬は今どこに 様々な学説が飛び交う汗血馬だが、現代には存在するのか。自分が調べた限りにおいては、現在フェルガナ盆地周辺ではあまり馬の飼育は盛んではないようで、この地がかつて名馬の里であったとされるのに対し、今では馬の価値もそこまで高くないのではないかと思われる。このあたりについては実際にウズベキスタンで馬の現状についての軽い調査をしてみたいものである。一方で、フェルガナ盆地とは異なる場所で、汗血馬の子孫とされる存在を見ることができる。主にトルクメニスタンで飼われている「アハルテケ」という種の馬がそれである。トルクメニスタンは現在でも馬の名産地として有名であり、アハルテケは同国の国章にも描かれている。この種は小柄であるが美しい体つきをしており、4152kmを84日で走破した記録を持つほど走りに長けている。ここで問題になるのはもしアハルテケを汗血馬の子孫とすると、大宛国の位置そのものがフェルガナ盆地よりもさらにトルクメニスタン側にあった可能性が出てくる点である(フェルガナとトルクメニスタンの間にはかなりの距離がある)。これは大宛国の位置がそもそも確定していないためであるが、このあたりは次回のブログの内容の布石とし、今回は汗血馬について述べたところまでで筆をおこうと思う。 文責:文科二類二年 藻谷

中央アジアにおけるロシア語教育

カテゴリー: 全般

私は2005年の愛知万博で旧ソ連圏各国のパビリオンの係員(20代)にロシア語で話しかけてみたところ、全く通じなかったバルト三国、カフカス諸国とは対照的に、中央アジア諸国 係員は全員ロシア語が通じた。そのため、今でも熱心にロシア語を教育しているのかと思いきや必ずしもそうではないようである。 政府は、教育改革の中でも特にウズベク語化政策(80%がウズベク族)を推進している。学校教育では、ウズベク語に重心が移りつつあるが、都市部ではまだロシア語で授業を行う学校も存在する。大学では卒業論文等をロシア語での提出を認めない所も出現し、教育のウズベク語化が徐々に進んでいる。(ウズベキスタン) 独立後の10年間で初等・中等教育におけるカザフ語化が進み、カザフ語のみで教育を行う学校が増えている。 また、公立学校ではカザフ語が義務化されている。教授言語はカザフ語で行う学校、ロシア語で行う学校にわかれており、最近はカザフ語で行う学校が増えている。(カザフスタン) 当地には母国語であるトルクメン語の学校とロシア語の学校が存在しており、そのどちらかの語学が得意かによって選択することが出来る。ただ殆どの学校は母国語であるトルクメン語で授業を行っており、ソ連崩壊後トルクメニスタン建国15年を経過した現在、ロシア語の学校は少なくなってきている。(トルクメニスタン) 旧ソ連の教育カリキュラムが受け継がれている。教授言語は一般的にタジク語であるが、ロシア語も多数ある。年々、大学への進学率は高くなってきておりロシア語で授業を行う大学への人気が高まっている。(タジキスタン) キルギスはソ連崩壊後いち早く旧ソ連型統治から市場経済化・民主化への脱却が行われた国であるが、統一された指導要領はなく、学校毎に教育内容が異なる。(キルギス) (外務省:諸外国の学校制度 http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/05europe/index05.html) こうして見ると将来的にロシア語を話せない人が増えると考えられる。現在は中央アジアの指導者層同士は母国語並みに操れるロシア語でコミュニケーションをとれているが、将来的に共通の言語がなくなったら協力関係に支障をもたらすのではないかと危惧される。 (文:文科三類二年 濱中)

ソ連の歴史教科書における日本の戦後

カテゴリー: 中央アジア散歩

本来はウズベキスタンの現在の歴史の教科書について書きたかったのだが、手に入らなかったため文科省内にある教育図書館所蔵の”Новейшая история для 10 класса”(10年生のための現代史)(1973)を参照した。 「日本」という題で4ページ半にわたる章がもうけられており、さらに「戦後の改革」「戦後の経済成長」「外交」「労働運動 」「日本国民の平和のための闘争」といった小見出しで分けられていた。 やはり社会主義的イデオロギー色が濃いことは否めない。中小企業の労働者が大企業に苦しめられていることや格差に関する記述が多く見られる。 「急速な工業の発展は科学技術革命だけでなく日本のプロレタリアートの残酷な搾取によって説明される。国家機関が巨大コンツェルンの繁栄に協力し、免税をしたり、利益になるような注文を割り当てたり、大規模に経済改革を変更したりして国が経済における重要な役目を果たしている。」 「増大する小作農の土地に対する闘争の影響のため政府は農地改革(1946〜1949)の導入を急いだ。地主には耕作地が3町残され、残りは国が買い取り農民に売却した。農地改革は小作人の数を減らし自作農を2倍に増やした。富裕な農民は顕著に財産をふやした。高い土地代のため多くの下流、中流階級の農民は土地を所有することはできなかった。」 基本的にどの資本主義国についても批判的に書かれている。しかしアメリカを絡めた批判が多いことが特徴的である。 「日本の民主化と非軍備化に関する連合国列強の決定にも関わらず、アメリカの占領政権は独占企業と地主と強く結びついた反動的な代表者からなる政権を形成した。その後、彼らは統治の指導者となり、現在は独占企業に支援を受けた自由民主党として政権を握っている。アメリカの支援のもと政府は以前の国家機構を維持し左翼を罰し労働運動を抑圧した。政府は政治力によって日本の独占企業の地位の復興を促し国内のアメリカの影響の案内人となった。」 「サンフランシスコ会議の後、自由民主党は陸海空軍設置に着手した。これは明らかに憲法に反している。(中略)アメリカ帝国主義は日本を軍備化することを選んだのである。」 今の日本の歴史の教科書や、参考として読んだ今のロシアの歴史の教科書とは、だいぶ趣きが異なるのは確かではある。しかし、かといってこの教科書に書かれていることが嘘八百だとは思わない。普通の教科書では切り捨てられがちな弱者に焦点を当てている点は特筆すべきであろう。ただ自国の政治、経済が腐っていることを棚に上げて批判している点は問題があるが‥。 (文:文科三類二年 濱中)